日本刀の形態(tài)研究 第三節(jié) 刀剣の磨き上げについて
日本刀の形態(tài)研究(三)
第三節(jié) 刀剣の磨き上げについて
刀剣は現(xiàn)存作品を以てすれば原則として製作者の銘のあるべきものです。
無(wú)銘のものは大部分摺り上げによって銘の取られたものと考えてよいと思います。勿論生ぶ莖にして銘のない場(chǎng)合もあります。往時(shí)戦亂に際しては実用本位の無(wú)銘刀が多く造られたと想像できますが、斯様なものと思しきものは今日殘らず、先在銘物を以て普通となし得るのが我々の見る刀剣における現(xiàn)狀です。
次に無(wú)銘磨り上げの刀剣は如何にしてできたものでしょうか。
それに関しては我々は種々の理由を考える事ができます。
先ず第一に自己の手頃の寸法の刀剣を得るため古作品を摺り上げたと見るべき場(chǎng)合、第二に作者の位が低いのを嫌い無(wú)銘となし、暗に上位の作者を想像させる場(chǎng)合、第三には始めから無(wú)銘摺り上げの形に作り出す場(chǎng)合の三つを考える事ができます。
第一により実用上長(zhǎng)い刀をつめる事は少なくとも応永以後の事でありましょう。
殊に文明以降末古刀時(shí)代は短い刀が実用されましたから摺り上げも行われた事と想像できます。
しかし平和時(shí)代の來(lái)ると共に一層摺り上げの風(fēng)習(xí)が高まったと思われます。
即ち慶長(zhǎng)以降徳川期に及んで刀は腰に手挾む事になって二尺三寸前後が定寸という事になりましたから摺り上げが頻繁に行われるに至った事はいうを要しないと思います。
第二、第三の場(chǎng)合による摺り上げは刀剣の鑑賞が行われると共に起こる現(xiàn)象で、この事は秀吉の相州物禮讃と共に著しくなったところです。
正宗、貞宗、郷義弘、粟田口吉光等は元來(lái)が寡作家乃至作品のほとんど見られない刀工であったと思われますから、相州伝愛好の風(fēng)潮はやがて無(wú)銘物の氾濫となった事でしょう。
事実今日殘された相州物の大部分は無(wú)銘です。ここに読者は備前物を無(wú)銘にしても相州物にならぬではないかと反問(wèn)するでしょう。
この事については私は相州物なる観念はかかる無(wú)銘物を中心になされたる作風(fēng)であると答えようと思います。
相州物の祖と見られる新籐五國(guó)光や行光には、所詮相州伝なる趣はなくて寧ろ山城伝に近いものという事ができます。相州伝は吉野朝時(shí)代全國(guó)的に見られる傾向で、かの長(zhǎng)巻き豪刀の類及び先反短刀等を以てするのが普通です。この事は別に詳しく述べますが、彼の正宗十哲といわれる人々の作品こそ相州伝といわるべきものです。
しかしそれは正宗と関係深く考えられるものではなく時(shí)代一般の風(fēng)潮という事ができます。
無(wú)銘相州物の大部分はこの吉野朝時(shí)代の作品が中核をなすものであり、他に新刀初期の製作になる始めからの大磨上げ無(wú)銘の刀があります。かかるものを中心にしてなされたる観念こそ相州伝であり慶長(zhǎng)以後暫時(shí)時(shí)代と共に形成されたものという事ができます。それ以後無(wú)銘物は幾多不純の動(dòng)機(jī)を以ていつの時(shí)代にも造られ、今日といえどもその跡は絶ちません。(第四章第四節(jié)相州伝の勃興參照)
人々はしばしば無(wú)銘物こそ最安全無(wú)比である。それは銘なきによって偽物の心配がないからと言いますが、かかる考え方こそ最危険なもので。その心理の裏をかいて多數(shù)の無(wú)名物が橫行しているのを知らなくてはなりません。私はしばしば刀剣鑑定を依頼されて痛切にこの事実を感じさせられています。
私に言わせれば無(wú)銘物は八割まで動(dòng)機(jī)不純であると極言します。
古來(lái)刀剣はその銘も尊重される事は言を俟たないので、鑑賞の始まる慶長(zhǎng)期以後否刀剣がしばしば進(jìn)物に供せられた応永時(shí)代にても在銘物の珍重せられた事は勿論です。
でありますから摺り上げを行う事は今日程嫌いはしませんが、なお折返し銘、額銘など困難なる工作を敢えてし、銘の保存に努めているのです。
この事によって簡(jiǎn)単に実用的考慮から大摺り上げ無(wú)銘を造ったと考えてはならないのです。
それと共に古刀の無(wú)銘は當(dāng)然とする考え方は一応は正しいのですが、それと共にかく信じ切るところに不純な作品につけ入られる動(dòng)機(jī)が造られるのであるといわなくてはなりません。
次の図は縮寫ですが、原寸二尺六寸の刀の摺り上げによって、銘の位置が何の辺りにあるかを示したものです。
磨り上げの寸法によって銘が如何なる辺りに存在するかを知る手助けとして下さい。

(一)は原寸二尺六寸の長(zhǎng)光刀です。(二)の様な工作経路によって磨き上げられ、(三)の二尺三寸五分の刀となります。目釘穴と銘は莖尻にくるのです。これを磨り上げ莖といいます。
次に(四)の工作経過(guò)によって(五)の二尺七分五厘折り返し銘に至ります。この折り返しの工作は磨り上げよりも更に労力を要するものでしばしば失敗を見る事もある由です(森岡正吉氏談)。
この場(chǎng)合銘は裏側(cè)へ廻りますから、太刀銘は刀銘に、さかさま銘になります。
(六)は一尺八寸四分五厘の脇差ですが、最早折返しはできないので無(wú)銘になります。
かかる時(shí)銘を棄てるに忍びないところから額銘が造られるのです。
以上は磨り上げ折り返し額銘と順序に見たのですが、一足飛びに折り返し、額銘に至る事も勿論多いのです。
これによって見れば三尺の太刀にても二尺三寸代の磨り上げでは折り返し銘が可能です。もっと折り返しを長(zhǎng)くする事によって更に自由になし得るのです。
しかしながら世上多くある無(wú)銘磨り上げは次の場(chǎng)合起こります。
この工作の面倒をきらった場(chǎng)合、古銘保存を要しない場(chǎng)合最初から無(wú)銘の場(chǎng)合、莖の朽ち込み甚だしく銘判読の困難な場(chǎng)合、古銘の作位を嫌った場(chǎng)合等々は無(wú)銘大磨り上げとなります。
かくして無(wú)銘刀の鑑定は困難なもので絶対的なものでは到底ありえない事は明瞭です。
また額銘は刀身と一致しないものもありますが、これは相當(dāng)まで看破できるものです。
この様に刀剣は磨り上げなる後天的の業(yè)によって時(shí)代の判定と作者の鑑別を困難ならしめる要素を増加します。
古い刀程磨り上げられる機(jī)會(huì)が多く特に古備前、一文字、長(zhǎng)光、兼光等の時(shí)代は定寸二尺五六寸以上あったため、祐定等の短い刀の行われた時(shí)代以後盛んに摺り上げが行われたのです。
慶長(zhǎng)以後埋忠明壽、明眞、重長(zhǎng)などが磨り上げ金象眼などを行った事は埋忠銘鑑によって知られます。
本阿彌家の鑑定に基いて金象眼をすれば在銘に準(zhǔn)ずる価値があったのです。
特に本阿彌光徳、光室、光溫、光忠の鑑定は信頼厚くその折紙、添狀は今日も尊ばれています。
爾來(lái)無(wú)銘刀の鑑定は本阿彌家の獨(dú)壇場(chǎng)であり、その折紙をもって人々の信用を得る所であった風(fēng)習(xí)は今日尚存しています。無(wú)銘刀は鑑定書なくしては大方価値がないといってもよいでしょう。
本阿彌家の偉大な業(yè)績(jī)であると共に、これによって恩恵を被るいかがわしき輩の多い事も今尚免れざるところです。
? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?轉(zhuǎn)載自 昭和15年発行の藤代義雄氏著 「日本刀要覧」