【青空文庫】太宰治 人間失格?第二の手記
對(duì)應(yīng)時(shí)間軸:0:38:27~2:12:50

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第二の手記
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海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新學(xué)年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉(わかば)と共に、青い海を背景にして、その絢爛(けんらん)たる花をひらき、やがて、花吹雪の時(shí)には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤(ちりば)めて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中學(xué)校に、自分は受験勉強(qiáng)もろくにしなかったのに、どうやら無事に入學(xué)できました。そうして、その中學(xué)の制帽の徽章(きしょう)にも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。
その中學(xué)校のすぐ近くに、自分の家と遠(yuǎn)い親戚に當(dāng)る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中學(xué)校を自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ學(xué)校のすぐ近くなので、朝禮の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中學(xué)生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。
生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場(chǎng)所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について來て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優(yōu)にとって、最も演じにくい場(chǎng)所は、故郷の劇場(chǎng)であって、しかも六親眷屬(けんぞく)全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優(yōu)も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて來ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者(くせもの)が、他郷に出て、萬が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。
自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動(dòng)(ぜんどう)していましたが、しかし、演技は実にのびのびとして來て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蠻聲を張り上げる配屬將校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出來たのです。
もはや、自分の正體を完全に隠蔽(いんぺい)し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉體をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣(うわぎ)を著て、學(xué)課は少しも出來ず、教練や體操はいつも見學(xué)という白癡に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認(rèn)めていなかったのでした。
その日、體操の時(shí)間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見學(xué)、自分たちは鉄棒の練習(xí)をさせられていました。自分は、わざと出來るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計(jì)畫的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ來ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い聲でこう囁(ささや)きました。
「ワザ。ワザ」
自分は震撼(しんかん)しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業(yè)火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
それからの日々の、自分の不安と恐怖。
表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息(ためいき)が出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて來て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、晝、晩、四六時(shí)中、竹一の傍(そば)から離れず彼が秘密を口走らないように監(jiān)視していたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯に於(お)いて、人に殺されたいと願(yuàn)望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を與えるだけの事だと考えていたからです。
自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優(yōu)しい」媚笑(びしょう)を湛(たた)え、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして貓撫(ねこな)で聲に似た甘ったるい聲で、彼を自分の寄宿している家に遊びに來るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に著いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。
その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女學(xué)校を卒業(yè)したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運(yùn)動(dòng)用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて殘して行った五六棟の長屋の家賃のようでした。
「耳が痛い」
竹一は、立ったままでそう言いました。
「雨に濡れたら、痛くなったよ」
自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。膿(うみ)が、いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。
「これは、いけない。痛いだろう」
と自分は大袈裟(おおげさ)におどろいて見せて、
「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」
と女の言葉みたいな言葉を遣って「優(yōu)しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって來て、竹一を自分の膝(ひざ)を枕にして寢かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善の悪計(jì)であることには気附かなかったようで、
「お前は、きっと、女に惚(ほ)れられるよ」
と自分の膝枕で寢ながら、無智なお世辭を言ったくらいでした。
しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識(shí)しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、自分は後年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の場(chǎng)であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱の伽藍(lán)(がらん)が崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文學(xué)語を用いると、あながち憂鬱の伽藍(lán)をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。
竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辭を言い、自分はその時(shí)、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、幽(かす)かに思い當(dāng)るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった雰囲気(ふんいき)に対して、そう言われると、思い當(dāng)るところもある、などと書くのは、ほとんど落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い當(dāng)るところもあった」わけでは無いのです。
自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに數(shù)倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも數(shù)が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時(shí)から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って來たのです。ほとんど、まるで見當(dāng)が、つかないのです。五里霧中で、そうして時(shí)たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負(fù)い、それがまた、男性から受ける笞(むち)とちがって、內(nèi)出血みたいに極度に不快に內(nèi)攻して、なかなか治癒(ちゆ)し難い傷でした。
女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳(じゃけん)にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時(shí)代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油斷のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした?!搞堡欷椁欷搿工胜螭皮いρ匀~も、また「好かれる」という言葉も、自分の場(chǎng)合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実狀の説明に適しているかも知れません。
女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調(diào)子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適當(dāng)のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出來るようです。
自分が中學(xué)時(shí)代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって來て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、
「御勉強(qiáng)?」
「いいえ」
と微笑して本を閉じ、
「きょうね、學(xué)校でね、コンボウという地理の先生がね」
とするする口から流れ出るものは、心にも無い滑稽噺でした。
「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん」
或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに來て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚(yáng)句の果に、そんな事を言い出しました。
「なぜ?」
「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい」
いつでも、こんな亂暴な命令口調(diào)で言うのでした。道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。
「そっくり。ロイドに、そっくり」
當(dāng)時(shí)、ハロルド?ロイドとかいう外國の映畫の喜劇役者が、日本で人気がありました。
自分は立って片手を挙げ、
「諸君」
と言い、
「このたび、日本のファンの皆様がたに、……」
と一場(chǎng)の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映畫がそのまちの劇場(chǎng)に來るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。
また、或る秋の夜、自分が寢ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって來て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、
「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」
などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態(tài)度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無內(nèi)容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脫け出し、機(jī)の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本が無い? 貸してよ」
と言いました。
自分は漱石の「吾輩は貓である」という本を、本棚から選んであげました。
「ごちそうさま」
アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓(みみず)の思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場(chǎng)合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機(jī)嫌を直すという事だけは、幼い時(shí)から、自分の経験に依って知っていました。
また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて來て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて來なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の來客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。
しかし、それは、竹一のお世辭の「惚れられる」事の実現(xiàn)では未だ決して無かったのでした。つまり、自分は、日本の東北のハロルド?ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辭が、いまわしい予言として、なまなまと生きて來て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、數(shù)年経った後の事でありました。
竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈(zèng)り物をしていました。
「お化けの絵だよ」
いつか竹一が、自分の二階へ遊びに來た時(shí)、ご持參の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自畫像に過ぎないのを知っていました。自分たちの少年の頃には、日本ではフランスの所謂印象派の畫が大流行していて、洋畫鑑賞の第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎の中學(xué)生でも、たいていその寫真版を見て知っていたのでした。自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。
「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」
自分は本棚から、モジリアニの畫集を出し、焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を竹一に見せました。
「すげえなあ」
竹一は眼を丸くして感嘆しました。
「地獄の馬みたい」
「やっぱり、お化けかね」
「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」
あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪(ようかい)を確実にこの眼で見たいと願(yuàn)望するに到る心理、神経質(zhì)な、ものにおびえ易い人ほど、暴風(fēng)雨の更に強(qiáng)からん事を祈る心理、ああ、この一群の畫家たちは、人間という化け物に傷(いた)めつけられ、おびやかされた揚(yáng)句の果、ついに幻影を信じ、白晝の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現(xiàn)に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに將來の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、
「僕も畫くよ。お化けの絵を畫くよ。地獄の馬を、畫くよ」
と、なぜだか、ひどく聲をひそめて、竹一に言ったのでした。
自分は、小學(xué)校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、自分の綴り方ほどには、周囲の評(píng)判が、よくありませんでした。自分は、どだい人間の言葉を一向に信用していませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、ただお道化の御挨拶みたいなもので、小學(xué)校、中學(xué)校、と続いて先生たちを狂喜させて來ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、(漫畫などは別ですけれども)その対象の表現(xiàn)に、幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。學(xué)校の図畫のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現(xiàn)法を自分で工夫して試みなければならないのでした。中學(xué)校へはいって、自分は油絵の道具も一揃(そろ)い持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の畫風(fēng)に求めても、自分の畫いたものは、まるで千代紙細(xì)工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵畫に対する心構(gòu)えが、まるで間違っていた事に気が附きました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現(xiàn)しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創(chuàng)造し、或いは醜いものに嘔吐(おうと)をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現(xiàn)のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、畫法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の來客たちには隠して、少しずつ、自畫像の制作に取りかかってみました。
自分でも、ぎょっとしたほど、陰慘な絵が出來上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正體なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。自分のお道化の底の陰慘を見破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正體とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奧深くしまい込みました。
また、學(xué)校の図畫の時(shí)間にも、自分はあの「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく畫く式の凡庸なタッチで畫いていました。
自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自畫像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を畫きつづけ、竹一からもう一つの、
「お前は、偉い絵畫きになる」
という予言を得たのでした。
惚れられるという予言と、偉い絵畫きになるという予言と、この二つの予言を馬鹿の竹一に依って額に刻印せられて、やがて、自分は東京へ出て來ました。
自分は、美術(shù)學(xué)校にはいりたかったのですが、父は、前から自分を高等學(xué)校にいれて、末は官吏にするつもりで、自分にもそれを言い渡してあったので、口応え一つ出來ないたちの自分は、ぼんやりそれに従ったのでした。四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中學(xué)はもういい加減あきていましたし、五年に進(jìn)級(jí)せず、四年修了のままで、東京の高等學(xué)校に受験して合格し、すぐに寮生活にはいりましたが、その不潔と粗暴に辟易(へきえき)して、道化どころではなく、醫(yī)師に肺浸潤の診斷書を書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。自分には、団體生活というものが、どうしても出來ません。それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして來て、とても、あの、ハイスクール?スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分の完璧(かんぺき)に近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。
父は議會(huì)の無い時(shí)は、月に一週間か二週間しかその家に滯在していませんでしたので、父の留守の時(shí)は、かなり広いその家に、別荘番の老夫婦と自分と三人だけで、自分は、ちょいちょい學(xué)校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず(自分はとうとう、明治神宮も、楠正成(くすのきまさしげ)の銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終りそうです)家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。父が上京して來ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋畫家、安田新太郎氏の畫塾に行き、三時(shí)間も四時(shí)間も、デッサンの練習(xí)をしている事もあったのです。高等學(xué)校の寮から脫けたら、學(xué)校の授業(yè)に出ても、自分はまるで聴講生みたいな特別の位置にいるような、それは自分のひがみかも知れなかったのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして來て、いっそう學(xué)校へ行くのが、おっくうになったのでした。自分には、小學(xué)校、中學(xué)校、高等學(xué)校を通じて、ついに愛校心というものが理解できずに終りました。校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。
自分は、やがて畫塾で、或る畫學(xué)生から、酒と煙草と淫売?jì)D(いんばいふ)と質(zhì)屋と左翼思想とを知らされました。妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。
その畫學(xué)生は、堀木正雄といって、東京の下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立の美術(shù)學(xué)校を卒業(yè)して、家にアトリエが無いので、この畫塾に通い、洋畫の勉強(qiáng)をつづけているのだそうです。
「五円、貸してくれないか」
お互いただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。自分は、へどもどして五円差し出しました。
「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう」
自分は拒否し切れず、その畫塾の近くの、蓬萊(ほうらい)町のカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。
「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある蕓術(shù)家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ來たおかげで、殘念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」
堀木は、色が淺黒く端正な顔をしていて、畫學(xué)生には珍らしく、ちゃんとした脊広(せびろ)を著て、ネクタイの好みも地味で、そうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。
自分は馴れぬ場(chǎng)所でもあり、ただもうおそろしく、腕を組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて來たのです。
「僕は、美術(shù)學(xué)校にはいろうと思っていたんですけど、……」
「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。學(xué)校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」
しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその時(shí)、生れてはじめて、ほんものの都會(huì)の與太者を見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷いしている點(diǎn)に於いてだけは、たしかに同類なのでした。そうして、彼はそのお道化を意識(shí)せずに行い、しかも、そのお道化の悲慘に全く気がついていないのが、自分と本質(zhì)的に異色のところでした。
ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を軽蔑(けいべつ)し、時(shí)には彼との交友を恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って歩いているうちに、結(jié)局、自分は、この男にさえ打ち破られました。
しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間恐怖の自分も全く油斷をして、東京のよい案內(nèi)者が出來た、くらいに思っていました。自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の緋(ひ)の絨緞(じゅうたん)が敷かれてある階段の両側(cè)に並んで立っている案內(nèi)嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、殊にも勘定を払う時(shí)、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時(shí)には、吝嗇(りんしょく)ゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんど半狂亂の気持になってしまって、値切るどころか、お釣を受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京のまちを歩けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという內(nèi)情もあったのでした。
それが、堀木に財(cái)布を渡して一緒に歩くと、堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、わずかなお金で最大の効果のあるような支払い振りを発揮し、また、高い円タクは敬遠(yuǎn)して、電車、バス、ポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、最短時(shí)間で目的地へ著くという手腕をも示し、淫売?jì)Dのところから朝帰る途中には、何々という料亭に立ち寄って朝風(fēng)呂へはいり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、その他、屋臺(tái)の牛めし焼とりの安価にして滋養(yǎng)に富むものたる事を説き、酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくその勘定に就いては自分に、一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。
さらにまた、堀木と附合って救われるのは、堀木が聞き手の思惑などをてんで無視して、その所謂情熱(パトス)の噴出するがままに、(或いは、情熱とは、相手の立場(chǎng)を無視する事かも知れませんが)四六時(shí)中、くだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙におちいる危懼(きく)が、全く無いという事でした。人に接し、あのおそろしい沈黙がその場(chǎng)にあらわれる事を警戒して、もともと口の重い自分が、ここを先途(せんど)と必死のお道化を言って來たものですが、いまこの堀木の馬鹿が、意識(shí)せずに、そのお道化役をみずからすすんでやってくれているので、自分は、返事もろくにせずに、ただ聞き流し、時(shí)折、まさか、などと言って笑っておれば、いいのでした。
酒、煙草、淫売?jì)D、それは皆、人間恐怖を、たとい一時(shí)でも、まぎらす事の出來るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって來ました。それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を売卻しても悔いない気持さえ、抱くようになりました。
自分には、淫売?jì)Dというものが、人間でも、女性でもない、白癡か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出來ました。みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売?jì)Dたちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と來ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白癡か狂人の淫売?jì)Dたちに、マリヤの円光を現(xiàn)実に見た夜もあったのです。
しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、幽かな一夜の休養(yǎng)を求めるために、そこへ行き、それこそ自分と「同類」の淫売?jì)Dたちと遊んでいるうちに、いつのまにやら無意識(shí)の、或るいまわしい雰囲気を身辺にいつもただよわせるようになった様子で、これは自分にも全く思い設(shè)けなかった所謂「おまけの附録」でしたが、次第にその「附録」が、鮮明に表面に浮き上って來て、堀木にそれを指摘せられ、愕然(がくぜん)として、そうして、いやな気が致しました。はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、淫売?jì)Dに依って女の修行をして、しかも、最近めっきり腕をあげ、女の修行は、淫売?jì)Dに依るのが一ばん厳しく、またそれだけに効果のあがるものだそうで、既に自分には、あの、「女達(dá)者」という匂いがつきまとい、女性は、(淫売?jì)Dに限らず)本能に依ってそれを嗅ぎ當(dāng)て寄り添って來る、そのような、卑猥(ひわい)で不名譽(yù)な雰囲気を、「おまけの附録」としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休養(yǎng)などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのでした。
堀木はそれを半分はお世辭で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い當(dāng)る事があり、たとえば、喫茶店の女から稚拙な手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家の隣りの將軍のはたちくらいの娘が、毎朝、自分の登校の時(shí)刻には、用も無さそうなのに、ご自分の家の門を薄化粧して出たりはいったりしていたし、牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、そこの女中が、……また、いつも買いつけの煙草屋の娘から手渡された煙草の箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷の親戚の娘から、思いつめたような手紙が來て、……また、誰かわからぬ娘が、自分の留守中にお手製らしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただ斷片、それ以上の進(jìn)展は一つもありませんでしたが、何か女に夢(mèng)を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっている事は、それは、のろけだの何だのといういい加減な冗談でなく、否定できないのでありました。自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、屈辱に似た苦(にが)さを感ずると共に、淫売?jì)Dと遊ぶ事にも、にわかに興が覚めました。
堀木は、また、その見栄坊(みえぼう)のモダニティから、(堀木の場(chǎng)合、それ以外の理由は、自分には今もって考えられませんのですが)或る日、自分を共産主義の読書會(huì)とかいう(R?Sとかいっていたか、記憶がはっきり致しません)そんな、秘密の研究會(huì)に連れて行きました。堀木などという人物にとっては、共産主義の秘密會(huì)合も、れいの「東京案內(nèi)」の一つくらいのものだったのかも知れません。自分は所謂「同志」に紹介せられ、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどい醜い顔の青年から、マルクス経済學(xué)の講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました。それは、そうに違いないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。慾、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように自然に肯定しながらも、しかし、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って眼をひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は出來ないのでした。けれども、自分は、いちども欠席せずに、そのR?S(と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません)なるものに出席し、「同志」たちが、いやに一大事の如く、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術(shù)めいた理論の研究にふけっているのが滑稽に見えてたまらず、れいの自分のお道化で、會(huì)合をくつろがせる事に努め、そのためか、次第に研究會(huì)の窮屈な気配もほぐれ、自分はその會(huì)合に無くてかなわぬ人気者という形にさえなって來たようでした。この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはりこの人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的なおどけ者の「同志」くらいに考えていたかも知れませんが、もし、そうだったら、自分は、この人たちを一から十まで、あざむいていたわけです。自分は、同志では無かったんです。けれども、その會(huì)合に、いつも欠かさず出席して、皆にお道化のサーヴィスをして來ました。
好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結(jié)ばれた親愛感では無かったのです。
非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強(qiáng)いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。
日蔭者(ひかげもの)、という言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生れた時(shí)からの日蔭者のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優(yōu)しい心になるのです。そうして、その自分の「優(yōu)しい心」は、自身でうっとりするくらい優(yōu)しい心でした。
また、犯人意識(shí)、という言葉もあります。自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識(shí)に苦しめられながらも、しかし、それは自分の糟糠(そうこう)の妻の如き好伴侶(はんりょ)で、そいつと二人きりで侘(わ)びしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている姿勢(shì)の一つだったかも知れないし、また、俗に、脛(すね)に傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時(shí)から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達(dá)し、夜々の痛苦は千変萬化の地獄とは言いながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な言い方ですけど)その傷は、次第に自分の血肉よりも親しくなり、その傷の痛みは、すなわち傷の生きている感情、または愛情の囁(ささや)きのようにさえ思われる、そんな男にとって、れいの地下運(yùn)動(dòng)のグルウプの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運(yùn)動(dòng)の本來の目的よりも、その運(yùn)動(dòng)の肌が、自分に合った感じなのでした。堀木の場(chǎng)合は、ただもう阿呆のひやかしで、いちど自分を紹介しにその會(huì)合へ行ったきりで、マルキシストは、生産面の研究と同時(shí)に、消費(fèi)面の視察も必要だなどと下手な灑落(しゃれ)を言って、その會(huì)合には寄りつかず、とかく自分を、その消費(fèi)面の視察のほうにばかり誘いたがるのでした。思えば、當(dāng)時(shí)は、さまざまの型のマルキシストがいたものです。堀木のように、虛栄のモダニティから、それを自稱する者もあり、また自分のように、ただ非合法の匂いが気にいって、そこに坐り込んでいる者もあり、もしもこれらの実體が、マルキシズムの真の信奉者に見破られたら、堀木も自分も、烈火の如く怒られ、卑劣なる裏切者として、たちどころに追い払われた事でしょう。しかし、自分も、また、堀木でさえも、なかなか除名の処分に遭わず、殊にも自分は、その非合法の世界に於いては、合法の紳士たちの世界に於けるよりも、かえってのびのびと、所謂「健康」に振舞う事が出來ましたので、見込みのある「同志」として、噴き出したくなるほど過度に秘密めかした、さまざまの用事をたのまれるほどになったのです。また、事実、自分は、そんな用事をいちども斷ったことは無く、平気でなんでも引受け、へんにぎくしゃくして、犬(同志は、ポリスをそう呼んでいました)にあやしまれ不審訊問(じんもん)などを受けてしくじるような事も無かったし、笑いながら、また、ひとを笑わせながら、そのあぶない(その運(yùn)動(dòng)の連中は、一大事の如く緊張し、探偵小説の下手な真似みたいな事までして、極度の警戒を用い、そうして自分にたのむ仕事は、まことに、あっけにとられるくらい、つまらないものでしたが、それでも、彼等は、その用事を、さかんに、あぶながって力んでいるのでした)と、彼等の稱する仕事を、とにかく正確にやってのけていました。自分のその當(dāng)時(shí)の気持としては、黨員になって捕えられ、たとい終身、刑務(wù)所で暮すようになったとしても、平気だったのです。世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、毎夜の不眠の地獄で呻(うめ)いているよりは、いっそ牢屋(ろうや)のほうが、楽かも知れないとさえ考えていました。
父は、桜木町の別荘では、來客やら外出やら、同じ家にいても、三日も四日も自分と顔を合せる事が無いほどでしたが、しかし、どうにも、父がけむったく、おそろしく、この家を出て、どこか下宿でも、と考えながらもそれを言い出せずにいた矢先に、父がその家を売払うつもりらしいという事を別荘番の老爺(ろうや)から聞きました。
父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ理由のあった事に違いありませんが、もうこれきり選挙に出る意志も無い様子で、それに、故郷に一棟、隠居所など建てたりして、東京に未練も無いらしく、たかが、高等學(xué)校の一生徒に過ぎない自分のために、邸宅と召使いを提供して置くのも、むだな事だとでも考えたのか、(父の心もまた、世間の人たちの気持ちと同様に、自分にはよくわかりません)とにかく、その家は、間も無く人手にわたり、自分は、本郷森川町の仙遊館という古い下宿の、薄暗い部屋に引越して、そうして、たちまち金に困りました。
それまで、父から月々、きまった額の小遣いを手渡され、それはもう、二、三日で無くなっても、しかし、煙草も、酒も、チイズも、くだものも、いつでも家にあったし、本や文房具やその他、服裝に関するものなど一切、いつでも、近所の店から所謂「ツケ」で求められたし、堀木におそばか天丼などをごちそうしても、父のひいきの町內(nèi)の店だったら、自分は黙ってその店を出てもかまわなかったのでした。
それが急に、下宿のひとり住いになり、何もかも、月々の定額の送金で間に合わせなければならなくなって、自分は、まごつきました。送金は、やはり、二、三日で消えてしまい、自分は慄然(りつぜん)とし、心細(xì)さのために狂うようになり、父、兄、姉などへ交互にお金を頼む電報(bào)と、イサイフミの手紙(その手紙に於いて訴えている事情は、ことごとく、お道化の虛構(gòu)でした。人にものを頼むのに、まず、その人を笑わせるのが上策と考えていたのです)を連発する一方、また、堀木に教えられ、せっせと質(zhì)屋がよいをはじめ、それでも、いつもお金に不自由をしていました。
所詮、自分には、何の縁故も無い下宿に、ひとりで「生活」して行く能力が無かったのです。自分は、下宿のその部屋に、ひとりでじっとしているのが、おそろしく、いまにも誰かに襲われ、一撃せられるような気がして來て、街に飛び出しては、れいの運(yùn)動(dòng)の手伝いをしたり、或いは堀木と一緒に安い酒を飲み廻ったりして、ほとんど學(xué)業(yè)も、また畫の勉強(qiáng)も放棄し、高等學(xué)校へ入學(xué)して、二年目の十一月、自分より年上の有夫の婦人と情死事件などを起し、自分の身の上は、一変しました。
學(xué)校は欠席するし、學(xué)科の勉強(qiáng)も、すこしもしなかったのに、それでも、妙に試験の答案に要領(lǐng)のいいところがあるようで、どうやらそれまでは、故郷の肉親をあざむき通して來たのですが、しかし、もうそろそろ、出席日數(shù)の不足など、學(xué)校のほうから內(nèi)密に故郷の父へ報(bào)告が行っているらしく、父の代理として長兄が、いかめしい文章の長い手紙を、自分に寄こすようになっていたのでした。けれども、それよりも、自分の直接の苦痛は、金の無い事と、それから、れいの運(yùn)動(dòng)の用事が、とても遊び半分の気持では出來ないくらい、はげしく、いそがしくなって來た事でした。中央地區(qū)と言ったか、何地區(qū)と言ったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺の學(xué)校全部の、マルクス學(xué)生の行動(dòng)隊(duì)々長というものに、自分はなっていたのでした。武裝蜂起(ほうき)、と聞き、小さいナイフを買い(いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした)それを、レンコオトのポケットにいれ、あちこち飛び廻って、所謂(いわゆる)「聯(lián)絡(luò)(れんらく)」をつけるのでした。お酒を飲んで、ぐっすり眠りたい、しかし、お金がありません。しかも、P(黨の事を、そういう隠語で呼んでいたと記憶していますが、或いは、違っているかも知れません)のほうからは、次々と息をつくひまも無いくらい、用事の依頼がまいります。自分の病弱のからだでは、とても勤まりそうも無くなりました。もともと、非合法の興味だけから、そのグルウプの手伝いをしていたのですし、こんなに、それこそ冗談から駒が出たように、いやにいそがしくなって來ると、自分は、ひそかにPのひとたちに、それはお門(かど)ちがいでしょう、あなたたちの直系のものたちにやらせたらどうですか、というようないまいましい感を抱くのを禁ずる事が出來ず、逃げました。逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。
その頃、自分に特別の好意を寄せている女が、三人いました。ひとりは、自分の下宿している仙遊館の娘でした。この娘は、自分がれいの運(yùn)動(dòng)の手伝いでへとへとになって帰り、ごはんも食べずに寢てしまってから、必ず用箋(ようせん)と萬年筆を持って自分の部屋にやって來て、
「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、ゆっくり手紙も書けないのです」
と言って、何やら自分の機(jī)に向って一時(shí)間以上も書いているのです。
自分もまた、知らん振りをして寢ておればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげの様子なので、れいの受け身の奉仕の精神を発揮して、実に一言も口をききたくない気持なのだけれども、くたくたに疲れ切っているからだに、ウムと気合いをかけて腹這(はらば)いになり、煙草を吸い、
「女から來たラヴ?レターで、風(fēng)呂をわかしてはいった男があるそうですよ」
「あら、いやだ。あなたでしょう?」
「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです」
「光栄だわ、飲んでよ」
早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、見えすいているのに。へへののもへじでも書いているのに違いないんです。
「見せてよ」
と死んでも見たくない思いでそう言えば、あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、そのうれしがる事、ひどくみっともなく、興が覚めるばかりなのです。そこで自分は、用事でも言いつけてやれ、と思うんです。
「すまないけどね、電車通りの薬屋に行って、カルモチンを買って來てくれない? あんまり疲れすぎて、顔がほてって、かえって眠れないんだ。すまないね。お金は、……」
「いいわよ、お金なんか」
よろこんで立ちます。用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。
もうひとりは、女子高等師範(fàn)の文科生の所謂「同志」でした。このひととは、れいの運(yùn)動(dòng)の用事で、いやでも毎日、顔を合せなければならなかったのです。打ち合せがすんでからも、その女は、いつまでも自分について歩いて、そうして、やたらに自分に、ものを買ってくれるのでした。
「私を本當(dāng)の姉だと思っていてくれていいわ」
そのキザに身震いしながら、自分は、
「そのつもりでいるんです」
と、愁(うれ)えを含んだ微笑の表情を作って答えます。とにかく、怒らせては、こわい、何とかして、ごまかさなければならぬ、という思い一つのために、自分はいよいよその醜い、いやな女に奉仕をして、そうして、ものを買ってもらっては、(その買い物は、実に趣味の悪い品ばかりで、自分はたいてい、すぐにそれを、焼きとり屋の親爺(おやじ)などにやってしまいました)うれしそうな顔をして、冗談を言っては笑わせ、或る夏の夜、どうしても離れないので、街の暗いところで、そのひとに帰ってもらいたいばかりに、キスをしてやりましたら、あさましく狂亂の如く興奮し、自動(dòng)車を呼んで、そのひとたちの運(yùn)動(dòng)のために秘密に借りてあるらしいビルの事務(wù)所みたいな狹い洋室に連れて行き、朝まで大騒ぎという事になり、とんでもない姉だ、と自分はひそかに苦笑しました。
下宿屋の娘と言い、またこの「同志」と言い、どうしたって毎日、顔を合せなければならぬ具合になっていますので、これまでの、さまざまの女のひとのように、うまく避けられず、つい、ずるずるに、れいの不安の心から、この二人のご機(jī)嫌をただ懸命に取り結(jié)び、もはや自分は、金縛り同様の形になっていました。
同じ頃また自分は、銀座の或る大カフエの女給から、思いがけぬ恩を受け、たったいちど逢っただけなのに、それでも、その恩にこだわり、やはり身動(dòng)き出來ないほどの、心配やら、空(そら)おそろしさを感じていたのでした。その頃になると、自分も、敢えて堀木の案內(nèi)に頼らずとも、ひとりで電車にも乗れるし、また、歌舞伎座にも行けるし、または、絣(かすり)の著物を著て、カフエにだってはいれるくらいの、多少の図々しさを裝えるようになっていたのです。心では、相変らず、人間の自信と暴力とを怪しみ、恐れ、悩みながら、うわべだけは、少しずつ、他人と真顔の挨拶、いや、ちがう、自分はやはり敗北のお道化の苦しい笑いを伴わずには、挨拶できないたちなのですが、とにかく、無我夢(mèng)中のへどもどの挨拶でも、どうやら出來るくらいの「伎倆(ぎりょう)」を、れいの運(yùn)動(dòng)で走り廻ったおかげ? または、女の? または、酒? けれども、おもに金銭の不自由のおかげで修得しかけていたのです。どこにいても、おそろしく、かえって大カフエでたくさんの酔客または女給、ボーイたちにもまれ、まぎれ込む事が出來たら、自分のこの絶えず追われているような心も落ちつくのではなかろうか、と十円持って、銀座のその大カフエに、ひとりではいって、笑いながら相手の女給に、
「十円しか無いんだからね、そのつもりで」
と言いました。
「心配要りません」
どこかに関西の訛(なま)りがありました。そうして、その一言が、奇妙に自分の、震えおののいている心をしずめてくれました。いいえ、お金の心配が要らなくなったからではありません、そのひとの傍にいる事に心配が要らないような気がしたのです。
自分は、お酒を飲みました。そのひとに安心しているので、かえってお道化など演じる気持も起らず、自分の地金(じがね)の無口で陰慘なところを隠さず見せて、黙ってお酒を飲みました。
「こんなの、おすきか?」
女は、さまざまの料理を自分の前に並べました。自分は首を振りました。
「お酒だけか? うちも飲もう」
秋の、寒い夜でした。自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、記憶が薄れ、たしかではありません。情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです)に言いつけられたとおりに、銀座裏の、或る屋臺(tái)のお鮨(すし)やで、少しもおいしくない鮨を食べながら、(そのひとの名前は忘れても、その時(shí)の鮨のまずさだけは、どうした事か、はっきり記憶に殘っています。そうして、青大將の顔に似た顔つきの、丸坊主のおやじが、首を振り振り、いかにも上手みたいにごまかしながら鮨を握っている様も、眼前に見るように鮮明に思い出され、後年、電車などで、はて見た顔だ、といろいろ考え、なんだ、あの時(shí)の鮨やの親爺に似ているんだ、と気が附き苦笑した事も再三あったほどでした。あのひとの名前も、また、顔かたちさえ記憶から遠(yuǎn)ざかっている現(xiàn)在なお、あの鮨やの親爺の顔だけは絵にかけるほど正確に覚えているとは、よっぽどあの時(shí)の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛を與えたものと思われます。もともと、自分は、うまい鮨を食わせる店というところに、ひとに連れられて行って食っても、うまいと思った事は、いちどもありませんでした。大き過ぎるのです。親指くらいの大きさにキチッと握れないものかしら、といつも考えていました)そのひとを、待っていました。
本所の大工さんの二階を、そのひとが借りていました。自分は、その二階で、日頃の自分の陰鬱な心を少しもかくさず、ひどい歯痛に襲われてでもいるように、片手で頬をおさえながら、お茶を飲みました。そうして、自分のそんな姿態(tài)が、かえって、そのひとには、気にいったようでした。そのひとも、身のまわりに冷たい木枯しが吹いて、落葉だけが舞い狂い、完全に孤立している感じの女でした。
一緒にやすみながらそのひとは、自分より二つ年上であること、故郷は広島、あたしには主人があるのよ、広島で床屋さんをしていたの、昨年の春、一緒に東京へ家出して逃げて來たのだけれども、主人は、東京で、まともな仕事をせずそのうちに詐欺罪に問われ、刑務(wù)所にいるのよ、あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、刑務(wù)所へかよっていたのだけれども、あすから、やめます、などと物語るのでしたが、自分は、どういうものか、女の身の上噺(ばなし)というものには、少しも興味を持てないたちで、それは女の語り方の下手なせいか、つまり、話の重點(diǎn)の置き方を間違っているせいなのか、とにかく、自分には、つねに、馬耳東風(fēng)なのでありました。
侘びしい。
自分には、女の千萬言の身の上噺よりも、その一言の呟(つぶや)きのほうに、共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事がないのを、奇怪とも不思議とも感じております。けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の巖に落ち附く枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が出來るのでした。
あの白癡の淫売?jì)Dたちのふところの中で、安心してぐっすり眠る思いとは、また、全く異って、(だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした)その詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は、自分にとって、幸福な(こんな大それた言葉を、なんの躊躇(ちゅうちょ)も無く、肯定して使用する事は、自分のこの全手記に於いて、再び無いつもりです)解放せられた夜でした。
しかし、ただ一夜でした。朝、眼が覚めて、はね起き、自分はもとの軽薄な、裝えるお道化者になっていました。弱蟲は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を張りめぐらすのでした。
「金の切れめが縁の切れめ、ってのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。金が無くなると女にふられるって意味、じゃあ無いんだ。男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気銷沈(しょうちん)して、ダメになり、笑う聲にも力が無く、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、半狂亂になって振って振って振り抜くという意味なんだね、金沢大辭林という本に依ればね、可哀そうに。僕にも、その気持わかるがね」
たしか、そんなふうの馬鹿げた事を言って、ツネ子を噴き出させたような記憶があります。長居は無用、おそれありと、顔も洗わずに素早く引上げたのですが、その時(shí)の自分の、「金の切れめが縁の切れめ」という出鱈目(でたらめ)の放言が、のちに到って、意外のひっかかりを生じたのです。
それから、ひとつき、自分は、その夜の恩人とは逢いませんでした。別れて、日が経つにつれて、よろこびは薄れ、かりそめの恩を受けた事がかえってそらおそろしく、自分勝手にひどい束縛を感じて來て、あのカフエのお勘定を、あの時(shí)、全部ツネ子の負(fù)擔(dān)にさせてしまったという俗事さえ、次第に気になりはじめて、ツネ子もやはり、下宿の娘や、あの女子高等師範(fàn)と同じく、自分を脅迫するだけの女のように思われ、遠(yuǎn)く離れていながらも、絶えずツネ子におびえていて、その上に自分は、一緒に休んだ事のある女に、また逢うと、その時(shí)にいきなり何か烈火の如く怒られそうな気がしてたまらず、逢うのに頗(すこぶ)るおっくうがる性質(zhì)でしたので、いよいよ、銀座は敬遠(yuǎn)の形でしたが、しかし、そのおっくうがるという性質(zhì)は、決して自分の狡猾(こうかつ)さではなく、女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの、塵(ちり)ほどの、つながりをも持たせず、完全の忘卻の如く、見事に二つの世界を切斷させて生きているという不思議な現(xiàn)象を、まだよく呑みこんでいなかったからなのでした。
十一月の末、自分は、堀木と神田の屋臺(tái)で安酒を飲み、この悪友は、その屋臺(tái)を出てからも、さらにどこかで飲もうと主張し、もう自分たちにはお金が無いのに、それでも、飲もう、飲もうよ、とねばるのです。その時(shí)、自分は、酔って大膽になっているからでもありましたが、
「よし、そんなら、夢(mèng)の國に連れて行く。おどろくな、酒池肉林という、……」
「カフエか?」
「そう」
「行こう!」
というような事になって二人、市電に乗り、堀木は、はしゃいで、
「おれは、今夜は、女に飢え渇いているんだ。女給にキスしてもいいか」
自分は、堀木がそんな酔態(tài)を演じる事を、あまり好んでいないのでした。堀木も、それを知っているので、自分にそんな念を押すのでした。
「いいか。キスするぜ。おれの傍に坐った女給に、きっとキスして見せる。いいか」
「かまわんだろう」
「ありがたい! おれは女に飢え渇いているんだ」
銀座四丁目で降りて、その所謂酒池肉林の大カフエに、ツネ子をたのみの綱としてほとんど無一文ではいり、あいているボックスに堀木と向い合って腰をおろしたとたんに、ツネ子ともう一人の女給が走り寄って來て、そのもう一人の女給が自分の傍に、そうしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたので、自分は、ハッとしました。ツネ子は、いまにキスされる。
惜しいという気持ではありませんでした。自分には、もともと所有慾というものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持はあっても、その所有権を敢然と主張し、人と爭(zhēng)うほどの気力が無いのでした。のちに、自分は、自分の內(nèi)縁の妻が犯されるのを、黙って見ていた事さえあったほどなのです。
自分は、人間のいざこざに出來るだけ觸りたくないのでした。その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。ツネ子と自分とは、一夜だけの間柄です。ツネ子は、自分のものではありません。惜しい、など思い上った慾は、自分に持てる筈はありません。けれども、自分は、ハッとしました。
自分の眼の前で、堀木の猛烈なキスを受ける、そのツネ子の身の上を、ふびんに思ったからでした。堀木によごされたツネ子は、自分とわかれなければならなくなるだろう、しかも自分にも、ツネ子を引き留める程のポジティヴな熱は無い、ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネ子の不幸に一瞬ハッとしたものの、すぐに自分は水のように素直にあきらめ、堀木とツネ子の顔を見較べ、にやにやと笑いました。
しかし、事態(tài)は、実に思いがけなく、もっと悪く展開せられました。
「やめた!」
と堀木は、口をゆがめて言い、
「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には、……」
閉口し切ったように、腕組みしてツネ子をじろじろ眺め、苦笑するのでした。
「お酒を。お金は無い」
自分は、小聲でツネ子に言いました。それこそ、浴びるほど飲んでみたい気持でした。所謂俗物の眼から見ると、ツネ子は酔漢のキスにも価いしない、ただ、みすぼらしい、貧乏くさい女だったのでした。案外とも、意外とも、自分には霹靂(へきれき)に撃ちくだかれた思いでした。自分は、これまで例の無かったほど、いくらでも、いくらでも、お酒を飲み、ぐらぐら酔って、ツネ子と顔を見合せ、哀(かな)しく微笑(ほほえ)み合い、いかにもそう言われてみると、こいつはへんに疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時(shí)に、金の無い者どうしの親和(貧富の不和は、陳腐のようでも、やはりドラマの永遠(yuǎn)のテーマの一つだと自分は今では思っていますが)そいつが、その親和感が、胸に込み上げて來て、ツネ子がいとしく、生れてこの時(shí)はじめて、われから積極的に、微弱ながら戀の心の動(dòng)くのを自覚しました。吐きました。前後不覚になりました。お酒を飲んで、こんなに我を失うほど酔ったのも、その時(shí)がはじめてでした。
眼が覚めたら、枕もとにツネ子が坐っていました。本所の大工さんの二階の部屋に寢ていたのでした。
「金の切れめが縁の切れめ、なんておっしゃって、冗談かと思うていたら、本気か。來てくれないのだもの。ややこしい切れめやな。うちが、かせいであげても、だめか」
「だめ」
それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から「死」という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの運(yùn)動(dòng)、女、學(xué)業(yè)、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました。
けれども、その時(shí)にはまだ、実感としての「死のう」という覚悟は、出來ていなかったのです。どこかに「遊び」がひそんでいました。
その日の午前、二人は淺草の六區(qū)をさまよっていました。喫茶店にはいり、牛乳を飲みました。
「あなた、払うて置いて」
自分は立って、袂(たもと)からがま口を出し、ひらくと、銅銭が三枚、羞恥(しゅうち)よりも凄慘(せいさん)の思いに襲われ、たちまち脳裡(のうり)に浮ぶものは、仙遊館の自分の部屋、制服と蒲団だけが殘されてあるきりで、あとはもう、質(zhì)草になりそうなものの一つも無い荒涼たる部屋、他には自分のいま著て歩いている絣の著物と、マント、これが自分の現(xiàn)実なのだ、生きて行けない、とはっきり思い知りました。
自分がまごついているので、女も立って、自分のがま口をのぞいて、
「あら、たったそれだけ?」
無心の聲でしたが、これがまた、じんと骨身にこたえるほどに痛かったのです。はじめて自分が、戀したひとの聲だけに、痛かったのです。それだけも、これだけもない、銅銭三枚は、どだいお金でありません。それは、自分が未(いま)だかつて味わった事の無い奇妙な屈辱でした。とても生きておられない屈辱でした。所詮(しょせん)その頃の自分は、まだお金持ちの坊ちゃんという種屬から脫し切っていなかったのでしょう。その時(shí)、自分は、みずからすすんでも死のうと、実感として決意したのです。
その夜、自分たちは、鎌倉の海に飛び込みました。女は、この帯はお店のお友達(dá)から借りている帯やから、と言って、帯をほどき、畳んで巖の上に置き、自分もマントを脫ぎ、同じ所に置いて、一緒に入水(じゅすい)しました。
女のひとは、死にました。そうして、自分だけ助かりました。
自分が高等學(xué)校の生徒ではあり、また父の名にもいくらか、所謂ニュウス?ヴァリュがあったのか、新聞にもかなり大きな問題として取り上げられたようでした。
自分は海辺の病院に収容せられ、故郷から親戚(しんせき)の者がひとり駈けつけ、さまざまの始末をしてくれて、そうして、くにの父をはじめ一家中が激怒しているから、これっきり生家とは義絶になるかも知れぬ、と自分に申し渡して帰りました。けれども自分は、そんな事より、死んだツネ子が戀いしく、めそめそ泣いてばかりいました。本當(dāng)に、いままでのひとの中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、すきだったのですから。
下宿の娘から、短歌を五十も書きつらねた長い手紙が來ました?!干欷琛工趣いΔ丐螭恃匀~ではじまる短歌ばかり、五十でした。また、自分の病室に、看護(hù)婦たちが陽気に笑いながら遊びに來て、自分の手をきゅっと握って帰る看護(hù)婦もいました。
自分の左肺に故障のあるのを、その病院で発見せられ、これがたいへん自分に好都合な事になり、やがて自分が自殺幇助(ほうじょ)罪という罪名で病院から警察に連れて行かれましたが、警察では、自分を病人あつかいにしてくれて、特に保護(hù)室に収容しました。
深夜、保護(hù)室の隣りの宿直室で、寢ずの番をしていた年寄りのお巡(まわ)りが、間のドアをそっとあけ、
「おい!」
と自分に聲をかけ、
「寒いだろう。こっちへ來て、あたれ」
と言いました。
自分は、わざとしおしおと宿直室にはいって行き、椅子に腰かけて火鉢にあたりました。
「やはり、死んだ女が戀いしいだろう」
「はい」
ことさらに、消え入るような細(xì)い聲で返事しました。
「そこが、やはり人情というものだ」
彼は次第に、大きく構(gòu)えて來ました。
「はじめ、女と関係を結(jié)んだのは、どこだ」
ほとんど裁判官の如く、もったいぶって尋ねるのでした。彼は、自分を子供とあなどり、秋の夜のつれづれに、あたかも彼自身が取調(diào)べの主任でもあるかのように裝い、自分から猥談(わいだん)めいた述懐を引き出そうという魂膽のようでした。自分は素早くそれを察し、噴き出したいのを怺(こら)えるのに骨を折りました。そんなお巡りの「非公式な訊問」には、いっさい答を拒否してもかまわないのだという事は、自分も知っていましたが、しかし、秋の夜ながに興を添えるため、自分は、あくまでも神妙に、そのお巡りこそ取調(diào)べの主任であって、刑罰の軽重の決定もそのお巡りの思召(おぼしめ)し一つに在るのだ、という事を固く信じて疑わないような所謂誠意をおもてにあらわし、彼の助平の好奇心を、やや満足させる程度のいい加減な「陳述」をするのでした。
「うん、それでだいたいわかった。何でも正直に答えると、わしらのほうでも、そこは手心を加える」
「ありがとうございます。よろしくお願(yuàn)いいたします」
ほとんど入神の演技でした。そうして、自分のためには、何も、一つも、とくにならない力演なのです。
夜が明けて、自分は署長に呼び出されました。こんどは、本式の取調(diào)べなのです。
ドアをあけて、署長室にはいったとたんに、
「おう、いい男だ。これあ、お前が悪いんじゃない。こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ」
色の淺黒い、大學(xué)出みたいな感じのまだ若い署長でした。いきなりそう言われて自分は、自分の顔の半面にべったり赤痣(あかあざ)でもあるような、みにくい不具者のような、みじめな気がしました。
この柔道か剣道の選手のような署長の取調(diào)べは、実にあっさりしていて、あの深夜の老巡査のひそかな、執(zhí)拗(しつよう)きわまる好色の「取調(diào)べ」とは、雲(yún)泥の差がありました。訊問がすんで、署長は、検事局に送る書類をしたためながら、
「からだを丈夫にしなけれゃ、いかんね。血痰(けったん)が出ているようじゃないか」
と言いました。
その朝、へんに咳(せき)が出て、自分は咳の出るたびに、ハンケチで口を覆っていたのですが、そのハンケチに赤い霰(あられ)が降ったみたいに血がついていたのです。けれども、それは、喉(のど)から出た血ではなく、昨夜、耳の下に出來た小さいおできをいじって、そのおできから出た血なのでした。しかし、自分は、それを言い明さないほうが、便宜な事もあるような気がふっとしたものですから、ただ、
「はい」
と、伏眼になり、殊勝げに答えて置きました。
署長は書類を書き終えて、
「起訴になるかどうか、それは検事殿がきめることだが、お前の身元引受人に、電報(bào)か電話で、きょう橫浜の検事局に來てもらうように、たのんだほうがいいな。誰か、あるだろう、お前の保護(hù)者とか保証人とかいうものが」
父の東京の別荘に出入りしていた書畫骨董(こっとう)商の渋田という、自分たちと同郷人で、父のたいこ持ちみたいな役も勤めていたずんぐりした獨(dú)身の四十男が、自分の學(xué)校の保証人になっているのを、自分は思い出しました。その男の顔が、殊に眼つきが、ヒラメに似ているというので、父はいつもその男をヒラメと呼び、自分も、そう呼びなれていました。
自分は警察の電話帳を借りて、ヒラメの家の電話番號(hào)を捜し、見つかったので、ヒラメに電話して、橫浜の検事局に來てくれるように頼みましたら、ヒラメは人が変ったみたいな威張った口調(diào)で、それでも、とにかく引受けてくれました。
「おい、その電話機(jī)、すぐ消毒したほうがいいぜ。何せ、血痰が出ているんだから」
自分が、また保護(hù)室に引き上げてから、お巡りたちにそう言いつけている署長の大きな聲が、保護(hù)室に坐っている自分の耳にまで、とどきました。
お晝すぎ、自分は、細(xì)い麻繩で胴を縛られ、それはマントで隠すことを許されましたが、その麻繩の端を若いお巡りが、しっかり握っていて、二人一緒に電車で橫浜に向いました。
けれども、自分には少しの不安も無く、あの警察の保護(hù)室も、老巡査もなつかしく、嗚呼(ああ)、自分はどうしてこうなのでしょう、罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ちついて、その時(shí)の追憶を、いま書くに當(dāng)っても、本當(dāng)にのびのびした楽しい気持になるのです。
しかし、その時(shí)期のなつかしい思い出の中にも、たった一つ、冷汗三斗の、生涯わすれられぬ悲慘なしくじりがあったのです。自分は、検事局の薄暗い一室で、検事の簡(jiǎn)単な取調(diào)べを受けました。検事は四十歳前後の物靜かな、(もし自分が美貌だったとしても、それは謂(い)わば邪淫の美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な靜謐(せいひつ)の気配を持っていました)コセコセしない人柄のようでしたので、自分も全く警戒せず、ぼんやり陳述していたのですが、突然、れいの咳が出て來て、自分は袂からハンケチを出し、ふとその血を見て、この咳もまた何かの役に立つかも知れぬとあさましい駈引きの心を起し、ゴホン、ゴホンと二つばかり、おまけの贋(にせ)の咳を大袈裟(おおげさ)に附け加えて、ハンケチで口を覆ったまま検事の顔をちらと見た、間一髪、
「ほんとうかい?」
ものしずかな微笑でした。冷汗三斗、いいえ、いま思い出しても、きりきり舞いをしたくなります。中學(xué)時(shí)代に、あの馬鹿の竹一から、ワザ、ワザ、と言われて脊中(せなか)を突かれ、地獄に蹴落(けおと)された、その時(shí)の思い以上と言っても、決して過言では無い気持です。あれと、これと、二つ、自分の生涯に於ける演技の大失敗の記録です。検事のあんな物靜かな侮蔑(ぶべつ)に遭うよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだったと思う事さえ、時(shí)たまある程なのです。
自分は起訴猶予になりました。けれども一向にうれしくなく、世にもみじめな気持で、検事局の控室のベンチに腰かけ、引取り人のヒラメが來るのを待っていました。
背後の高い窓から夕焼けの空が見え、鴎(かもめ)が、「女」という字みたいな形で飛んでいました。