『 後藤 三所物 這龍図 』
三所物:小柄、小笄、目貫。
『 後藤 三所物 這龍図 』【 京都名家蔵出し 売り切ります!】
サイズ(素人採寸ですので多少の誤差はご了承ください)
小柄 橫9.8センチ 縦1.4センチ 厚さ4ミリ
笄 橫21.5センチ 縦1.3センチ 厚さ3ミリ
目貫 橫5.5センチ 縦1.4センチ 厚さ4ミリ
目貫 橫5.4センチ 縦1.4センチ 厚さ5ミリ


刀裝金工家?後藤一乗|幕府や皇室に認められたその実力と作風(fēng)
後藤一乗は幕末から明治にかけて活躍した刀裝金工家です。名門?後藤家の分家當主でありながら、その確かな技術(shù)力と自由な発想で、本家以上に幕府や皇室から重用されました。今回は後藤一乗の生い立ちやその作風(fēng)などについてご紹介していきます。
後藤一乗の生い立ち
後藤一乗は1791年、京後藤家の分家である後藤七郎右衛(wèi)門重乗の次男として京都室町頭木下町に生まれます。9歳となる1799年に同じく京の分家?後藤八郎兵衛(wèi)謙乗の養(yǎng)子となりました。後藤家は刀裝金工の名家として知られ、將軍家の御用を代々勤め上げてきた家柄です。一乗はその分家に生まれ、養(yǎng)子となったということになります。
11歳の時に半左衛(wèi)門亀乗に師事し金工技術(shù)を?qū)Wび、後の刀裝金工家としての基礎(chǔ)を固めていきました。養(yǎng)父である謙乗が亡くなったことから、15歳の時に八郎兵衛(wèi)家の六代目當主となります。
本家すらもしのぐ実力と評される
1811年には、室町時代から御用達彫金師として將軍家に仕える「四郎兵衛(wèi)宗家」より、大判の墨書書改や分銅制作の依頼を受け、業(yè)務(wù)を拡大します。さらに1824年には光格天皇の刀裝具を制作し、その功績が認められて法橋(僧綱の僧位のひとつ)に敘せられました。
1851年には10人扶持を受けて江戸に下り、幕府御用にて刀裝具を製作。1855年には十三代將軍?徳川家定にお目見えするなど、刀裝金工家として高い名聲を得るようになりました。さらに1862年には孝明天皇の刀裝具を制作し、翌年に法眼に敘せられます。
1866年に息子?光伸へ幕府の御用を譲り、「一乗細工所」を経営し、優(yōu)れた弟子たちを排出しました。
後藤一乗の伝統(tǒng)的技術(shù)に裏付けされた自由な作風(fēng)
江戸時代において、後藤家の刀裝具は格式が高く、登城など公式の場では後藤家のものを身につけるのが當たり前でした。しかし江戸中期以降は形式主義に陥ることで「町彫」が臺頭します。
後藤一乗は分家ではありますが、伝統(tǒng)ある後藤家の當主として伝統(tǒng)的な技法を?qū)Wび、高い技術(shù)力を持っていた人物です。その一方で、絵畫?和歌?俳諧に長じた教養(yǎng)人?文化人であったとされています。そのため、一乗の作風(fēng)は伝統(tǒng)的ながら雅味があり、後藤家の中でも一味違う魅力を持っていました。このことを裏付けるように、幕末から明治に活躍した金工師?加納夏雄は「後藤一乗なる人物は技量に優(yōu)れて世に評価され、本家である後藤家をも圧倒した」と後藤一乗を評価しています。
また、後藤家では金?赤胴以外の地金を用いた製作が禁じられていましたが、一乗は鉄地の鍔(つば)も制作していたとされます。ただ、さすがに問題があると感じたのか、「伯応」「凹凸山人」「一意」「夢竜」など一乗以外の別號を使って製作していたそうです。こうしたことからも、後藤一乗の自由さが見て取れるのではないでしょうか。
刀裝具や彫刻品の買取はお気軽に「なんぼや」へ
後藤一乗は名門?後藤家の分家當主でありながら、高い技量と絵畫的で自由な感性により刀裝具を製作してきました。形式主義に陥った本家と一線を畫し、幕府や朝廷にも認められたことからも、そのセンスや技量が優(yōu)れていたことは間違いありません。
「なんぼや」では後藤一乗の刀裝具や彫刻品、ゆかりの品などさまざまなものを高価買取しております。お手元に査定してみたいお品があれば、ぜひお持ちください。