【櫻學(xué)資料】永井均《“我”的同一性與<我>的同一性》選譯
(本文選譯自日本當(dāng)代哲學(xué)家、維特根斯坦專家永井均的論文《「私」の同一性と<私>の同一性》,希望能為理解《櫻之刻》中的自我理論提供幫助。)
? ? さてスウィンバーンによれば,身體と個(gè)人的記憶の両方を同時(shí)に喪失しても,なお人格の同一性は保持されうる.多くの宗教の基礎(chǔ)にある霊魂の不滅という想定はこの可能性を前提しており,それを信じない人でもこの前提を矛盾なく理解することはできるのである.彼は次のように書いている.
? ? 根據(jù)斯溫伯恩,即使同時(shí)喪失身體和個(gè)人記憶兩者,人格同一性仍然能被保持。處于許多宗教的基礎(chǔ)的靈魂不滅這一設(shè)想以這個(gè)可能性為前提,即使是不相信它的人也能夠無(wú)矛盾地理解這個(gè)前提。他如下寫道。


? ? 私の主張したいことは,自然法則はどの生きた身體があなたのものであり,どれが私のものであるかを決して決定できない,ということである.まったく同じ物質(zhì)の配列とまったく同じ法則が,今あなたのものである身體(したがってまた直明な記憶)を私に與え,今は私のものである身體(したがってまた直明な記憶)をあなたに與えることもできたであろう.人格に身體〔したがってまた直明な記憶〕を割り當(dāng)てるには,神か偶然かが必要であるの.
? ? 我要主張的是,自然法則決不能決定哪個(gè)活著的身體屬于你,哪個(gè)屬于我。完全相同的物質(zhì)排列和完全相同的法則,應(yīng)該也能把現(xiàn)在屬于你的身體(因而直明的記憶)給我、把現(xiàn)在屬于我的身體(因而直明的記憶)給你吧。對(duì)于給人格分配身體【因而直明的記憶】來(lái)說(shuō),上帝或偶然是必要的。
? ? この引用文の最初の二つのセンテンスに,私は重大な真理への鋭い直観的洞察を認(rèn)める.しかし重要なことは,そこにあらわれる「あなた」と「私」を「彼」と「彼女」で置き換えてしまえば,すぐにその真理は消滅してしまう,ということである.今あなた(彼,彼女)のものである身體や記憶(やその他すべての物理的?心理的諸屬性)が私のものであり,現(xiàn)に私のものである身體や記憶(やその他すべての物理的?心理的諸屬性)があなた(彼?彼女)のものであることも可能だった.數(shù)十億の生きた人間(ほとんど無(wú)量大數(shù)のかつて生きた人間とこれから生きるであろう人間)のうち,ある一つが<私>という特殊なあり方をしていた(別の人間がそのあり方をしていることも可能だったし,そのあり方をしている者は存在しないことも可能だったのに)という事実を,その人間の外的?內(nèi)的(物理的?心理的)諸屬性から説明することはできない,その人間が<私>であったのは,その人間のもついかなる性質(zhì)とも関係のない,<偶然>なのである.ということはつまり,<私>であるという事実は,その人間のもつ身體やら記憶やら性格やらの諸事実とは,まったく獨(dú)立に成立しているということである.だからこそ,世界についての客観的事実(記憶等の心理的諸事実を含めて)を何も変えることなく,今あなたのものである諸屬性が<私>のものであり,現(xiàn)に<私>のものである諸屬性があなたのものである反事実的狀況を,思い描くことができたのである.他者に関しては,しかし,この種の想像は成り立ちえない.世界についての客観的事実を何も変えることなしに,今P氏のものである諸屬性がすべてQ氏のものとなり,現(xiàn)にQ氏のものである諸屬性がすべてP氏のものとなる狀況を,思い描くことなどはできない.P氏のものである諸屬性をすべてもつ人物は,すなわちP氏なのであり,Q氏のものである諸屬性をすべてもつ人物は,すなわちQ氏なのである.P氏が<私>であることは想像可能だが,P氏がQ氏であることは想像不可能である.それゆえ,引用文の第三のセンテンスは誤っている.「神か偶然か」が必要なのは,ただく私>に身體や精神を割り當(dāng)てるときだけであり,他の諸人格は身體や精神そのものでしかありえないからである.
? ? 在這段引文的前兩個(gè)句子中,我看出了對(duì)重大真理的敏銳的直觀洞察。但重要的是,如果把出現(xiàn)在那里的“你”和“我”用“他”和“她”置換的話,那個(gè)真理就會(huì)立刻消失?,F(xiàn)在屬于你(他、她)的身體和記憶(和其他一切的物理、心理的諸屬性)屬于我,現(xiàn)在屬于我的身體和記憶(和其他一切的物理、心理的諸屬性)屬于你(他、她),也是可能的。在數(shù)十億的活著的人(幾乎無(wú)量大數(shù)個(gè)曾經(jīng)活著的人和今后應(yīng)該會(huì)活著的人)中,有一個(gè)人以<我>這一特殊的存在方式存在(別的人以那個(gè)存在方式存在也是可能的,不存在以那個(gè)存在方式存在的人也是可能的)這一事實(shí),不能從那個(gè)人的外在、內(nèi)在的(物理、心理的)諸屬性來(lái)說(shuō)明,那個(gè)人是<我>,與那個(gè)人擁有的任何性質(zhì)都沒有關(guān)系,是<偶然>的。這也就是說(shuō),是<我>這一事實(shí),與那個(gè)人擁有的身體、記憶、性格等諸事實(shí),完全獨(dú)立地成立。正因如此,不改變?nèi)魏侮P(guān)于世界的客觀事實(shí)(包括記憶等諸心理事實(shí)),現(xiàn)在屬于你的諸屬性屬于<我>,現(xiàn)在屬于<我>的諸屬性屬于你的反事實(shí)狀況,是能夠想象的。但是,關(guān)于他人,這種想象不能成立。不改變?nèi)魏侮P(guān)于世界的客觀事實(shí),現(xiàn)在屬于P先生的諸屬性全部變?yōu)閷儆赒先生,現(xiàn)在屬于Q先生的諸屬性全部變?yōu)閷儆赑先生的狀況,根本不能想象。擁有全部的屬于P先生的諸屬性的人物,即是P先生,擁有全部的屬于Q先生的諸屬性的人物,即是Q先生。P先生是<我>是可想象的,但P先生是Q先生是不可想象的。故而,引文的第三個(gè)句子是錯(cuò)誤的?!吧系刍蚺既弧笔潜匾?,只有給<我>分配身體和精神的時(shí)候,因?yàn)槠渌闹T人格只可能是身體和精神本身。
? ? それゆえ,人格の同一性が成り立っためには,身體の時(shí)空的連続性か,記憶を中心とする心理的連続性か,少なくともどちらか一方が維持されていなければならない,という條件は絶対的である.しかし,<私>の同一性が成り立っためには,その條件は絶対的とは言えないのである.スウィンバーンは,人は身體を失い,レーテ河を越えて現(xiàn)世の記憶のすべてを失っても,霊魂の持続のゆえに,來(lái)世においてなお同一の人格にとどまることができると考えていた.しかし,それが言えるのは<私>についてだけである.人物Pが,物理的連続性も心理的連続性もなしに,なお同じPであり続けるということには,いかなる意味も與えられない(そういう想像をしようとしても,何を想像すればよいのかさえわからない).これに反して<私>は,物理的連続性も心理的連続性もなしに,なお<私>にとどまることができる.そのような想像をしたいならば,現(xiàn)に私のものであるのとはまったく別の身體(あるいは無(wú)身體)と現(xiàn)に私のものであるのとはまったく別の心が,そこから世界が開けている唯一の原點(diǎn)であるような狀態(tài)を想像すればよい.そこから世界が開けている唯一の原點(diǎn)こそが,すなわち<私>だからである.ある人格を他の諸人格から分つものは身體や記憶をはじめとするその諸屬性の差異でしかありえないが,<私>を他の諸人格から分つものは屬性上の差異ではない.多様な屬性をもった多數(shù)の人物のうちのどれが<私>であるかは,それのもついかなる屬性上の特徴からも決定されえない(永井均のもつ諸性質(zhì)をすべて數(shù)えあげても,そのどこからもこの人物が他の人物と異なる特別なあり方をしているつまり<私>であるという事実は説明されない)のである.
??? 故而,為了人格同一性成立,身體的時(shí)空連續(xù)性或以記憶為中心的心理連續(xù)性,必須至少有某一者被維持,這一條件是絕對(duì)的。但是,為了<我>的同一性成立,那個(gè)條件不能說(shuō)是絕對(duì)的。斯溫伯恩認(rèn)為,即使人失去身體,越過Lethe河失去現(xiàn)世的全部記憶,由于靈魂的持續(xù),在來(lái)世仍能逗留于同一個(gè)人格。但是,只有關(guān)于<我>才能那樣說(shuō)。人物P,沒有物理連續(xù)性也沒有心理連續(xù)性,仍然繼續(xù)是相同的P,這不能被賦予任何意義(即使想要做那樣的想象,也連想象什么好都不知道)。與此相反,<我>沒有物理連續(xù)性也沒有心理連續(xù)性,仍然能逗留于<我>。如果想要做那樣的想象的話,那么想象像這樣的狀態(tài)就好:跟現(xiàn)在屬于我的身體完全相別的身體(或者無(wú)身體)和跟現(xiàn)在屬于我的心靈完全相別的心靈是世界由之展開的唯一的原點(diǎn)。因?yàn)槭澜缬芍归_的唯一的原點(diǎn),正就是<我>。把某個(gè)人格從其他的諸人格中分出來(lái)的,只可能是以身體和記憶為首的諸屬性的差異,但把<我>從其他的諸人格中分出來(lái)的,并不是屬性上的差異。擁有多種多樣的屬性的眾多人物之中的哪一個(gè)是<我>,不能被其擁有的任何屬性上的特征決定(即使將永井均擁有的諸性質(zhì)全部列舉出來(lái),這個(gè)人物以和其他人物不同的特別的存在方式存在、亦即是<我>這一事實(shí),也不能由其中的哪個(gè)說(shuō)明)。
? ? そうだとすれば,今たまたま<私>である人物は,身體の時(shí)空的連続性も精神の意味的連続性も斷ち切ることなしに,<私>でなくなることができる(永井均という人物にいかなる異変も起こすことなしに,彼は<私>でなくなることができる)ことになる.少なくとも私自身にとって,この想像はまったく容易である.一分後,永井均は生き続けており,今と同じようにこの論文の続きを書き続けている.しかし,彼はもはや<私>ではなくなっている.この論文に書かれたような思想を持ち,今と同じ身體,今と同じ記憶を持った,永井均という名の一人物が存在している,という<客観的>事実だけが殘る.世界は開けの原點(diǎn)を持たなくなって,それゆえ無(wú)いも同じものとなる,と考えてもよい.あるいはまた,<私>は永井均の身體と精神から離脫し,始めのうち殘存していた彼の卑俗な精神の影響(記憶)も次第に消え去り,ついにはまったく超越的な視點(diǎn)から,永井均を含む世界をまったく客観的に眺められるようになる,と考えてもよい.いずれにせよ,私自身にとつて,この想像は有意味である.しかし,この想像が有意味なのは,私自身にとってだけなのである.他の人々は,永井均に起こったこの<異変>に,何の意義も認(rèn)めることができない.彼は——外面はもちろん內(nèi)面も——以前と同じように存続しており,彼に起こった<異変>は,彼らにとっては——そしておそらく彼自身(永井均という人物)にとっても——何ら異変ではありえないからである.
? ? 倘若如此,那就是說(shuō),現(xiàn)在碰巧是<我>的人物,能夠不切斷身體的時(shí)空連續(xù)性和精神意義上的連續(xù)性,而變得不是<我>(永井均這一人物能夠不引發(fā)任何異變,而變得不是<我>)。至少對(duì)我自己來(lái)說(shuō),這個(gè)想象完全是容易的。一分鐘后,永井均繼續(xù)活著,像現(xiàn)在一樣繼續(xù)寫著這篇論文的后續(xù)。但是,他已經(jīng)變得不是<我>了。擁有這篇論文所寫的思想、擁有和現(xiàn)在相同的身體與記憶的名為永井均的一個(gè)人物存在著,只有這一<客觀>事實(shí)存留??梢钥紤],世界變得不具有展開的原點(diǎn),故而變成沒有也一樣的東西?;蛘咭部梢钥紤],<我>從永井均的身體和精神脫離,最初殘存的他的卑俗的精神的影響(記憶)也逐漸消失,終于變得能夠從完全超越的視點(diǎn),完全客觀地注視含有永井均的世界。不管怎樣,對(duì)我自己來(lái)說(shuō),這個(gè)想象是有意義的。但是,只有對(duì)我自己來(lái)說(shuō),這個(gè)想象才是有意義的。其他的人們,在永井均發(fā)生的這個(gè)<異變>中,不能看出任何意義。因?yàn)樗庠谧圆槐卣f(shuō),內(nèi)在也——像以前一樣存續(xù)著,他發(fā)生的<異變>,對(duì)他們來(lái)說(shuō)——并且恐怕對(duì)他自己(永井均這一人物)來(lái)說(shuō)也——不可能是什么異變。