用太宰聲線讀《人間失格》——第二張照片

第二葉の寫真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。學(xué)生の姿である。高等學(xué)校時(shí)代の寫真か、大學(xué)時(shí)代の寫真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の學(xué)生である。 第二張照片上的他,臉部發(fā)生了很大的變化,讓人不由得大吃一驚。那是一副學(xué)生的打扮。盡管很難斷定是高中時(shí)代還是大學(xué)時(shí)代,但他已出落為一個(gè)相當(dāng)英俊的學(xué)生了。
しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。 不過有一點(diǎn)讓人覺得有些蹊蹺,這張照片上的他竟沒有一點(diǎn)那種活生生的人的感覺。
學(xué)生服を著て、胸のポケットから白いハンケチを覗のぞかせ、籐椅子とういすに腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。 他穿著學(xué)生服,從胸前的口袋處露出白色的手絹,交叉著雙腿坐在藤椅上,并且還在笑著。
こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。 然而,這一次的笑容,不再是那種皺巴巴的猴子的笑,而是變成了頗為巧妙的微笑,但不知為何,總與人的笑容大相徑庭,缺乏那種可以稱之為鮮血的凝重或是生命的澀滯之類的充實(shí)感。那笑容不像鳥,而像羽毛一樣輕飄飄的,他就那么笑著,恰似白紙一張。
つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、もちろん足りない。しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の學(xué)生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて來るのである。 總之,讓人覺得那是一種徹頭徹尾的人工制品,既便把它斥之為“矯飾”斥之為“輕薄”,斥之為“女人氣”都嫌不夠,稱之為“喜好刀尺”就更不解氣了。仔細(xì)打量的話,也會(huì)從這個(gè)英俊的學(xué)生身上找到某種近似于怪誕的可怕東西。
私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。 迄今為止,我還從來沒有看到過如此怪異的英俊青年。