條野采菊(じょうのさいぎく)生平簡介


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最近在找臺本《千金之淚》的原文,不過找遍了都沒有,可能是條野作為歌舞伎落語劇作家確實(shí)沒什么人氣吧……(小聲)
生平:
條野采菊,本名條野傳平,劇作家,新聞人。
家在日本橋長谷川町(現(xiàn)日本橋堀留町2丁目)通俗讀物書屋。在擔(dān)任本鄉(xiāng)三丁目的綢緞屋“伊豆倉”大當(dāng)家的同時,17歲左右開始師從第五代川柳家水谷綠亭(1787-1858,江戶時代后期的川柳歌作家),嶄露頭角。后得伊豆倉的顧客老中阿部正弘(1819-1857,江戶時代末期備后福山藩第7代藩主,幕末動亂時期推動安政改革,老中是阿部正弘當(dāng)時的職位)認(rèn)可其文才而備受喜愛。另外,采菊與年長的劇作家松亭金水(1795-1862)、梅亭金鵝、假名垣魯文(1829~1894)等人交往。
在三游亭圓朝(1839-1900)和河竹其水亦參與其中的三題話會“雅狂會”(三題話,落語的一種形式),1863年(文久3年)與魯文合作,共同出版了《醉興奇人傳》。
1860年(萬延元年,時28歲),出版了人情本(一種描寫市井生活的通俗小說)《春色戀情染與洇》。曾著合卷,與為永春水(1790-1843)、松亭金水(1795-1862)、染崎延房等人所著人情本系列。
采菊亦寫歌舞伎劇本。作為報社劇評家之中的老資格,1890年,東京日日新聞的新人記者岡本綺堂(1872-1939,歌舞伎劇作家,小說家)也曾有受采菊照顧的軼事。而采菊,亦曾是職場的新手記者。(1868年,采菊與福地櫻癡等人創(chuàng)刊《江湖新聞》;1872年創(chuàng)刊《東京日日新聞》,任社長;1886年創(chuàng)刊《大和新聞》。)
1902年(明治35年),即辭去《大和新聞》社長職務(wù)的第二年,因心臟衰弱去世。七十歲?!肚甯咴簳x譽(yù)走來采菊居士》。墓在谷中陵園(位于東京都臺東區(qū))。
采菊與妻子(鏑木)婦美育有三男。長子為官,次子從商,幺子為鏑木清方(1878-1972,畫家)。

雖然采菊也出版了西歐的小說,但由于他不懂外語,所以可以推測它們是以福地櫻癡翻譯為基礎(chǔ)出版的。
『春色戀廼染分解』(人情本)、文鱗堂(1860)
『池園物語』(合巻)、出版不詳(1862)
『源平桜の五所染(しろくれない --)』(合巻)、片ばみ屋米次郎(1863)
仮名垣魯文と合輯:『酔興奇人伝』、寶善堂(1863)
『春色江戸紫』(人情本)、出版不詳(1864)
『三人於七花暦封文』(合巻)、出版不詳(1866)
『春色玉襷』(人情本)、出版不詳(1868)
明治維新
『鶯塚千代廼初聲 2 - 4編』(人情本)、片ばみ屋米次郎(1869)
『唐詩作加那(とうしざかな)、金松堂(1869)
『漢語都々逸』(學(xué)習(xí)書)、松林堂(1870)
『漢語図解』(語學(xué)習(xí)書)、文玉堂ほか(1870)
『柳蔭月朝妻』(合巻)、紅英堂(1870)
『藪鶯八萬不知』(合巻)、出版不詳(1871)
三遊亭円朝作?採菊序:『今朝春三組杯』、青盛堂(1872)
『近世紀(jì)聞 初編』、金松堂(1873)[第2編以降は染崎延房]
『阿玉ヶ池櫛月形 初編』(合巻)、紅英堂(1874)[第2、3編は染崎延房]
『室町源氏胡蝶巻 22 - 24編』(合巻)、紅英堂(1874)
『郭雀小稲出來秋(さとすずめ --)』(人情本風(fēng))、やまと新聞連載(1886.10 - )
『折枝の梅が香』(翻案)、やまと新聞(1887.3.24 - 1877.6.4)
『八重桜奈良の古跡』(人情小説)、やまと新聞(1887.6.10 - 1887.7.29)
『とりかへばや』(現(xiàn)代小説)、新小説(1889.1 - 1889.7)
『千金の涙』(臺本)、歌舞伎新報(1889.11)
『思の家』(遊郭悲戀物語)、文蕓倶楽部、(1895.8)
『依田の苗代』(臺本)、太陽(1897.9)
『昔の初春』(江戸の回想)、日出國新聞(1901.1.1 - )
『日出國新聞』は、やまと新聞の1900年11月 - 1904年12月の紙名[9]。
『見聞逸話』(江戸の回想)、新小説(1901.1、3、12)
岡鬼太郎、岡本綺堂と共作:『金鯱噂高浪』、歌舞伎座で上演(1902)
