有機(jī)體, 相互に複雑に影響しあいながら展開してきた
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世界システム論で紐解く現(xiàn)代史
川北(2016)によれば、世界システム論とは、近代世界を1つの巨大な生き物のように考え、近代の世界史をそうした有機(jī)體の展開過程としてとらえる見方である。つまり、世界の歴史について、ヨーロッパ中心史観を否定し、少なくとも16世紀(jì)以降は、ヨーロッパと非ヨーロッパ世界が一體となって、相互に複雑に影響しあいながら展開してきたと考えるわけである。とはいえ、現(xiàn)在に至る世界システムがヨーロッパ的であることを川北は否定しない。決して、イスラムを中心とした世界システムとか、東南アジアを中心とした世界システムが地球を一體化させたわけではないのである。つまり、1500年ごろ以降の歴史において、ヨーロッパ的?資本主義的な世界システムが地球を覆うようになり、地球上に存在したさまざまな「世界」が、ヨーロッパを中心とする「近代世界システム」に吸収されたいったのだと川北はいう。その要因としては、ヨーロッパ発のこのシステムには「飽くなき成長?拡大」を追求する內(nèi)的動機(jī)(成長パラノイア)が內(nèi)蔵されていたことにあるという。
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世界システム論の視點(diǎn)から世界史を理解するうえで重要なのは、歴史は「國」を」単位として動くのではないということだと川北は指摘する。近代の世界は1つのまとまったシステム(構(gòu)造體)を成しているので、すべての國の動向は「一體としての世界」つまり世界システムの動きの一部でしかないのである。例えば、「イギリスは工業(yè)化されたが、インドされなかった」のではなく、「イギリスが工業(yè)化したために、その影響を受けたインドが容易に工業(yè)化できなくなった」と理解するのである。今日の南北問題にしても、北の國々が工業(yè)化され、開発される過程そのものにおいて、南の諸國がその食糧?原材料生産地として猛烈に開発された結(jié)果、経済や社會のあり方が歪んんでしまったことから生じたのだというわけである。南と北は、単一の世界システムすなわち世界的な分業(yè)體制をなし、それぞれの生産物を大規(guī)模の交換することで初めて世界経済が成り立つことになったことを意味しているのである。
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川北によれば、近代の世界システムは、大航海時(shí)代の後半に、西ヨーロッパ諸國を「中核」とし、ラテンアメリカや東ヨーロッパを「周辺」として成立した。その後、この巨大生物は、十九世紀(jì)のように激しく成長?拡大する時(shí)期と、十七世紀(jì)のように収縮気味の時(shí)期とを繰り返しつつ、地球上のあらゆる地域を呑み込んでいった。今日では地球上にこのシステムに呑み込まれていない地域はほとんどないとさえいう。世界システムの「中核」とは、この世界的な規(guī)模での分業(yè)體制から多くの余剰を吸収できる地域であり、工業(yè)生産を中心とする地域でもある?!钢苻x」は、食糧や原材料の生産に特化させられ、中核に従屬させられる地域のことである。西ヨーロッパがこの世界システムの中核として、國家體制が強(qiáng)化されていったのに対し、エルベ川以東の東ヨーロッパとラテンアメリカは、中核に従屬する周辺として、國家的な機(jī)能が弱められ、植民地化されることさえあった。世界システムは、その地域間分業(yè)の作用を通じて、中核では國家機(jī)能を強(qiáng)化しつつ、周辺では國家を溶融っせる効果をもったのだと川北はいう。
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ではなぜ、かつては世界の辺境にあった西ヨーロッパが近代世界システムの中核となったのか。それは、14?15世紀(jì)ごろにヨーロッパ全域で人口の激減を伴う「封建制の危機(jī)」があり、この危機(jī)への対応の中から近代の世界システムが成立したというのが定説だと川北はいう。ヨーロッパにおいて人口が減少し生産が停滯する中で、領(lǐng)主と農(nóng)民の取り分をめぐる闘爭が高まったため、この危機(jī)を脫する方法として分け合うもとのパイを大きくする、すなわち「大航海時(shí)代」を契機(jī)として北西ヨーロッパの枠をはるかに越えた拡大が志向されたというのである。ヨーロッパ各地の領(lǐng)主階級は國王に権力を集中して農(nóng)民からの抵抗に対応する必要性に迫られ、その結(jié)果、國家が発展したわけだが、それゆえ、ヨーロッパ全體としては政治的統(tǒng)合を欠いた経済システムであった。つまり、ヨーロッパが「國民國家の寄せ集め」となったことが、各國が競って武器や経済の開発を進(jìn)めることとなり、それが世界システムの発展を促進(jìn)したと川北はいうのである。
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最初に大航海時(shí)代をリードしたのがポルトガルとスペインである。間違いなく両國は、世界の一體化、つまり大西洋や北海をまたぐ大規(guī)模な分業(yè)體制を意味する近代世界システムの成立をもたらしたと川北はいう。大航海時(shí)代において、近代世界システムの中核地域である西ヨーロッパは、東ヨーロッパやラテンアメリカなど「周辺部」から得られる経済的余剰を享受するようになった。そして、スペインやポルトガルに代わり、オランダ、イギリス、フランスも體外進(jìn)出を果たすようになる。世界システムの歴史では、ときに、超大國が現(xiàn)れ、中核地域においてさえ、他の諸國を圧倒する場面が生じるが、このような國を「ヘゲモニー(覇権)國家」という。世界史では、対外進(jìn)出を通して成功をおさめたオランダがヘゲモニー國家となり、その後ヘゲモニー國家はイギリスへ、そしてアメリカへと移ることになる。とりわけイギリスがヘゲモニー國家となり、植民地を拡大し、商業(yè)革命を成立させると、イギリスに様々なものが集中するようになった。それがイギリス発の産業(yè)革命につながったことを川北は示唆する。
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中核部が工業(yè)化の局面に入り、世界システムが全地球を覆うようになると、世界システムのレベルで無限の労働供給が成立しなくなってきたと川北は説明する。その結(jié)果、周辺地域間で労働力を移動させ、より適切な配置に再編成すること以外に方法がなくなった。それが、アイルランドを含むイギリスからのアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド移民、東ヨーロッパ、南ヨーロッパ諸國からアメリカへの移民、日本からハワイ、南アメリカへの移民、アフリカ大陸內(nèi)の黒人労働者の移動など、大量移民を通した周辺労働力の再編成の動きにつながったという。他方、中核の高い賃金と生活水準(zhǔn)を求めた周辺から中核への移動も絶えず発生したともいう。同じ中核國間においても、よりヘゲモニーに近い國への労働力の移動が絶えず起こり、世界のメトロといえる都市には大きなスラムが登場した。周辺諸國においても、首都への異様な人口集中がみられるようになった。つまり、近代世界システムは、その作用によって、中核、周辺それぞれの地域の中心としに人間を集中させたのだと川北はいうのである。
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19世紀(jì)後半以降、大英帝國を成功させたイギリスは衰退し始める。中核內(nèi)では、イギリスに変わってドイツとアメリカが新たなヘゲモニー國家を目指すことになった。同時(shí)に、この頃すでに、近代世界システムが地球のほぼ全域を覆い、経済余剰を獲得するための新たな周辺を開拓する余地がなくなっていた。そして、アフリカ分割を契機(jī)に、世界が帝國主義と呼ばれる領(lǐng)土爭奪戦に突入し、二度の世界大戦を経験した。これは、ドイツとアメリカによる新たなヘゲモニー國家の地位をめぐる爭いでもあり、両方とも勝利したアメリカが新たなヘゲモニーを確立したと川北は解説する。社會主義國となったソ連や、その後に成立した多くの社會主義政権も、基本主義的世界システムの中にある「反システム的な政體」であるにすぎず、近代世界システムの外に身を置き続けることはできなかったと川北は指摘する。ただ、アメリカのヘゲモニーも長くは続かず、1971年のドル?ショック以降、ヘゲモニーを次第に消失しつつある。
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地球上に新たな「周辺」となるべき未開拓の土地はなくなった。ただ、川北によれば、近代世界システムの本質(zhì)の多くは、今日に至るまで維持されている。中核が周辺に資源を求め、工業(yè)製品を供給することも、その貿(mào)易が不均等交換で中核に有利になっていることも変わりない。しかし、低開発國の典型とされた中國はいまや世界経済を動かす存在となっており、アメリカやアフリカの諸國でも、ブラジルのように単なる低開発國とはいえなくなっている國が少なくないと川北は指摘する。インドは、國內(nèi)に大きな格差を抱えながらも、情報(bào)技術(shù)などを軸に新たな経済発展を遂げており、「工業(yè)化された國こそが中核である」というかつての近代世界システムの通則が微妙に揺らいでいることも指摘する。つまり、生産に基礎(chǔ)をおかず、金融と情報(bào)を基礎(chǔ)とする地域が世界システムの中核の一部となるとき、世界システムのあり方は変わらざるを得なくなるだろうという見解を持って川北は解説を締めくくっている。
文獻(xiàn)
川北稔 2016「世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界」(ちくま學(xué)蕓文庫)