日語《我是貓》第十章2

このあくびがまた鯨くじらの遠吠とおぼえのようにすこぶる変調を極きわめた者であったが、それが一段落を告げると、主人はのそのそと著物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた細君はいきなり布団ふとんをまくって夜著よぎを畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、主人の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然としてがーがー、げーげーを持続している。やがて頭を分け終って、西洋手拭てぬぐいを肩へかけて、茶の間へ出御しゅつぎょになると、超然として長火鉢の橫に座を占めた。長火鉢と云うと欅けやきの如輪木じょりんもくか、銅あかの総落そうおとしで、洗髪あらいがみの姉御が立膝で、長煙管ながぎせるを黒柿くろがきの縁ふちへ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが、わが苦沙彌くしゃみ先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない、何で造ったものか素人しろうとには見當けんとうのつかんくらい古雅なものである。長火鉢は拭き込んでてらてら光るところが身上しんしょうなのだが、この代物しろものは欅か桜か桐きりか元來不明瞭な上に、ほとんど布巾ふきんをかけた事がないのだから陰気で引き立たざる事夥おびただしい。こんなものをどこから買って來たかと云うと、決して買った覚おぼえはない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盜んだのかと糺ただして見ると、何だかその辺が曖昧あいまいである。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、當分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく、つい持って來てしまったのだそうだ。少々たちが悪いようだ??激à毪趣郡沥瑦櫎い瑜Δ坤长螭适陇鲜篱gに往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を笠かさに著て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らの喙くちばしを容いるる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満している以上は長火鉢事件をもって主人に泥棒根性があると斷定する訳には行かぬ。もし主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。 長火鉢の傍そばに陣取って、食卓を前に控ひかえたる主人の三面には、先刻さっき雑巾ぞうきんで顔を洗った坊ばと御茶おちゃの味噌の學校へ行くとん子と、お白粉罎しろいびんに指を突き込んだすん子が、すでに勢揃せいぞろいをして朝飯を食っている。主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。とん子の顔は南蠻鉄なんばんてつの刀の鍔つばのような輪廓りんかくを有している。すん子も妹だけに多少姉の面影おもかげを存して琉球塗りゅうきゅうぬりの朱盆しゅぼんくらいな資格はある。ただ坊ばに至っては獨ひとり異彩を放って、面長おもながに出來上っている。但ただし竪たてに長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは橫に長いのである。いかに流行が変化し易やすくったって、橫に長い顔がはやる事はなかろう。主人は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生長の速すみやかなる事は禪寺ぜんでらの筍たけのこが若竹に変化する勢で大きくなる。主人はまた大きくなったなと思うたんびに、後うしろから追手おってにせまられるような気がしてひやひやする。いかに空漠くうばくなる主人でもこの三令嬢が女であるくらいは心得ている。女である以上はどうにか片付けなくてはならんくらいも承知している。承知しているだけで片付ける手腕のない事も自覚している。そこで自分の子ながらも少しく持て余しているところである。持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義を云うとほかに何にもない。ただ入いらざる事を捏造ねつぞうして自みずから苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。 さすがに子供はえらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうにご飯をたべる。ところが始末におえないのは坊ばである。坊ばは當年とって三歳であるから、細君が気を利きかして、食事のときには、三歳然たる小形の箸はしと茶碗をあてがうのだが、坊ばは決して承知しない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかい悪にくい奴を無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出て柄がらにもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊ば時代から萌芽ほうがしているのである。その因よって來きたるところはかくのごとく深いのだから、決して教育や薫陶くんとうで癒なおせる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。 坊ばは隣りから分捕ぶんどった偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、しきりに暴威を擅ほしいままにしている。使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、勢いきおい暴威を逞たくましくせざるを得ない。坊ばはまず箸の根元を二本いっしょに握ったままうんと茶碗の底へ突込んだ。茶碗の中は飯が八分通り盛り込まれて、その上に味噌汁が一面に漲みなぎっている。箸の力が茶碗へ伝わるやいなや、今までどうか、こうか、平均を保っていたのが、急に襲撃を受けたので三十度ばかり傾いた。同時に味噌汁は容赦なくだらだらと胸のあたりへこぼれだす。坊ばはそのくらいな事で辟易へきえきする訳がない。坊ばは暴君である。今度は突き込んだ箸を、うんと力一杯茶碗の底から刎はね上げた。同時に小さな口を縁ふちまで持って行って、刎はね上げられた米粒を這入はいるだけ口の中へ受納した。打ち洩もらされた米粒は黃色な汁と相和して鼻のあたまと頬ほっぺたと顋あごとへ、やっと掛聲をして飛びついた。飛びつき損じて畳の上へこぼれたものは打算ださんの限りでない。隨分無分別な飯の食い方である。吾輩は謹つつしんで有名なる金田君及び天下の勢力家に忠告する。公等こうらの他をあつかう事、坊ばの茶碗と箸をあつかうがごとくんば、公等こうらの口へ飛び込む米粒は極めて僅少きんしょうのものである。必然の勢をもって飛び込むにあらず、戸迷とまどいをして飛び込むのである。どうか御再考を煩わずらわしたい。世故せこにたけた敏腕家にも似合しからぬ事だ。 姉のとん子は、自分の箸と茶碗を坊ばに掠奪りゃくだつされて、不相応に小さな奴をもってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、一杯にもった積りでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって頻繁ひんぱんに御はちの方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。とん子は御はちの蓋ふたをあけて大きなしゃもじを取り上げて、しばらく眺ながめていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決心したものと見えて、焦こげのなさそうなところを見計って一掬ひとしゃくいしゃもじの上へ乗せたまでは無難ぶなんであったが、それを裏返して、ぐいと茶碗の上をこいたら、茶碗に入はいりきらん飯は塊かたまったまま畳の上へ転ころがり出した。とん子は驚ろく景色けしきもなく、こぼれた飯を鄭寧ていねいに拾い始めた。拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。少しきたないようだ。 坊ばが一大活躍を試みて箸を刎はね上げた時は、ちょうどとん子が飯をよそい了おわった時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔のいかにも亂雑なのを見かねて「あら坊ばちゃん、大変よ、顔が御ごぜん粒だらけよ」と云いながら、早速さっそく坊ばの顔の掃除にとりかかる。第一に鼻のあたまに寄寓きぐうしていたのを取払う。取払って捨てると思のほか、すぐ自分の口のなかへ入れてしまったのには驚ろいた。それから頬ほっぺたにかかる。ここには大分だいぶ群ぐんをなして數(shù)かずにしたら、両方を合せて約二十粒もあったろう。姉は丹念に一粒ずつ取っては食い、取っては食い、とうとう妹の顔中にある奴を一つ殘らず食ってしまった。この時ただ今まではおとなしく沢庵たくあんをかじっていたすん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から薩摩芋さつまいものくずれたのをしゃくい出して、勢よく口の內へ拋ほうり込んだ。諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど口中こうちゅうにこたえる者はない。大人おとなですら注意しないと火傷やけどをしたような心持ちがする。ましてすん子のごとき、薩摩芋に経験の乏とぼしい者は無論狼狽ろうばいする訳である。すん子はワッと云いながら口中こうちゅうの芋を食卓の上へ吐き出した。その二三片ぺんがどう云う拍子か、坊ばの前まですべって來て、ちょうどいい加減な距離でとまる。坊ばは固もとより薩摩芋が大好きである。大好きな薩摩芋が眼の前へ飛んで來たのだから、早速箸を拋ほうり出して、手攫てづかみにしてむしゃむしゃ食ってしまった。 先刻さっきからこの體ていたらくを目撃していた主人は、一言いちごんも云わずに、専心自分の飯を食い、自分の汁を飲んで、この時はすでに楊枝ようじを使っている最中であった。主人は娘の教育に関して絶體的放任主義を執(zhí)とるつもりと見える。今に三人が海老茶式部えびちゃしきぶか鼠式部ねずみしきぶかになって、三人とも申し合せたように情夫じょうふをこしらえて出奔しゅっぽんしても、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。働きのない事だ。しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、噓をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虛勢を張って人をおどかす事と、鎌かまをかけて人を陥おとしいれる事よりほかに何も知らないようだ。中學などの少年輩までが見様見真似みようみまねに、こうしなくては幅が利きかないと心得違いをして、本來なら赤面してしかるべきのを得々とくとくと履行りこうして未來の紳士だと思っている。これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。吾輩も日本の貓だから多少の愛國心はある。こんな働き手を見るたびに撲なぐってやりたくなる。こんなものが一人でも殖ふえれば國家はそれだけ衰える訳である。こんな生徒のいる學校は、學校の恥辱であって、こんな人民のいる國家は國家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は貓ほどの気概もないと見える。情なさけない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などは遙はるかに上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。豬口才ちょこざいでないところが上等なのである。 かくのごとく働きのない食い方をもって、無事に朝食あさめしを済ましたる主人は、やがて洋服を著て、車へ乗って、日本堤分署へ出頭に及んだ。格子こうしをあけた時、車夫に日本堤という所を知ってるかと聞いたら、車夫はへへへと笑った。あの遊廓のある吉原の近辺の日本堤だぜと念を押したのは少々滑稽こっけいであった。 主人が珍らしく車で玄関から出掛けたあとで、妻君は例のごとく食事を済ませて「さあ學校へおいで。遅くなりますよ」と催促すると、小供は平気なもので「あら、でも今日は御休みよ」と支度したくをする景色けしきがない?!赣荬撙胜猡螭扦工⒃绀胜丹ぁ工冗长筏毪瑜Δ搜预盲坡劋护毪取袱饯欷扦庾蛉栅韦?、先生が御休だって、おっしゃってよ」と姉はなかなか動じない。妻君もここに至って多少変に思ったものか、戸棚から暦こよみを出して繰り返して見ると、赤い字でちゃんと御祭日と出ている。主人は祭日とも知らずに學校へ欠勤屆を出したのだろう。細君も知らずに郵便箱へ拋ほうり込んだのだろう。ただし迷亭に至っては実際知らなかったのか、知って知らん顔をしたのか、そこは少々疑問である。この発明におやと驚ろいた妻君はそれじゃ、みんなでおとなしく御遊びなさいと平生いつもの通り針箱を出して仕事に取りかかる。 その後ご三十分間は家內平穏、別段吾輩の材料になるような事件も起らなかったが、突然妙な人が御客に來た。十七八の女學生である。踵かかとのまがった靴を履はいて、紫色の袴はかまを引きずって、髪を算盤珠そろばんだまのようにふくらまして勝手口から案內も乞こわずに上あがって來た。これは主人の姪めいである。學校の生徒だそうだが、折々日曜にやって來て、よく叔父さんと喧嘩をして帰って行く雪江ゆきえとか云う奇麗な名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほどでもない、ちょっと表へ出て一二町あるけば必ず逢える人相である。 「叔母さん今日は」と茶の間へつかつか這入はいって來て、針箱の橫へ尻をおろした。 「おや、よく早くから……」 「今日は大祭日ですから、朝のうちにちょっと上がろうと思って、八時半頃から家うちを出て急いで來たの」 「そう、何か用があるの?」 「いいえ、ただあんまり御無沙汰をしたから、ちょっと上がったの」 「ちょっとでなくっていいから、緩ゆっくり遊んでいらっしゃい。今に叔父さんが帰って來ますから」 「叔父さんは、もう、どこへかいらしったの。珍らしいのね」 「ええ今日はね、妙な所へ行ったのよ?!欷匦肖盲郡巍⒚瞍扦筏绀Α? 「あら、何で?」 「この春這入はいった泥棒がつらまったんだって」 「それで引き合に出されるの? いい迷惑ね」 「なあに品物が戻るのよ。取られたものが出たから取りに來いって、昨日きのう巡査がわざわざ來たもんですから」 「おや、そう、それでなくっちゃ、こんなに早く叔父さんが出掛ける事はないわね。いつもなら今時分はまだ寢ていらっしゃるんだわ」 「叔父さんほど、寢坊はないんですから……そうして起こすとぷんぷん怒おこるのよ。今朝なんかも七時までに是非おこせと云うから、起こしたんでしょう。すると夜具の中へ潛もぐって返事もしないんですもの。こっちは心配だから二度目にまたおこすと、夜著よぎの袖そでから何か云うのよ。本當にあきれ返ってしまうの」 「なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」 「何ですか」 「本當にむやみに怒る方かたね。あれでよく學校が勤まるのね」 「なに學校じゃおとなしいんですって」 「じゃなお悪るいわ。まるで蒟蒻閻魔こんにゃくえんまね」 「なぜ?」 「なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔のようじゃありませんか」 「ただ怒るばかりじゃないのよ。人が右と云えば左、左と云えば右で、何でも人の言う通りにした事がない、――そりゃ強情ですよ」 「天探女あまのじゃくでしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、うらを云うと、こっちの思い通りになるのよ。こないだ蝙蝠傘こうもりを買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと云ったら、いらない事があるものかって、すぐ買って下すったの」 「ホホホホ旨うまいのね。わたしもこれからそうしよう」 「そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ」 「こないだ保険會社の人が來て、是非御這入おはいんなさいって、勧めているんでしょう、――いろいろ訳わけを言って、こう云う利益があるの、ああ云う利益があるのって、何でも一時間も話をしたんですが、どうしても這入らないの。うちだって貯蓄はなし、こうして小供は三人もあるし、せめて保険へでも這入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれども、そんな事は少しも構わないんですもの」 「そうね、もしもの事があると不安心だわね」と十七八の娘に似合しからん世帯染しょたいじみたことを云う。 「その談判を蔭で聞いていると、本當に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから會社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は保険に這入はいる必要はないじゃないかって強情を張っているんです」 「叔父さんが?」 「ええ、すると會社の男が、それは死ななければ無論保険會社はいりません。しかし人間の命と云うものは丈夫なようで脆もろいもので、知らないうちに、いつ危険が逼せまっているか分りませんと云うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、まあ無法な事を云うんですよ」 「決心したって、死ぬわねえ。わたしなんか是非及第きゅうだいするつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」 「保険社員もそう云うのよ。壽命は自分の自由にはなりません。決心で長なが生いきが出來るものなら、誰も死ぬものはございませんって」 「保険會社の方が至當しとうですわ」 「至當でしょう。それがわからないの。いえ決して死なない。誓って死なないって威張るの」 「妙ね」 「妙ですとも、大妙おおみょうですわ。保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方が遙はるかにましだってすまし切っているんですよ」 「貯金があるの?」 「あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっとも構う考なんかないんですよ」 「本當に心配ね。なぜ、あんななんでしょう、ここへいらっしゃる方かただって、叔父さんのようなのは一人もいないわね」 「いるものですか。無類ですよ」 「ちっと鈴木さんにでも頼んで意見でもして貰うといいんですよ。ああ云う穏おだやかな人だとよっぽど楽らくですがねえ」 「ところが鈴木さんは、うちじゃ評判がわるいのよ」 「みんな逆さかなのね。それじゃ、あの方かたがいいでしょう――ほらあの落ちついてる――」 「八木さん?」 「ええ」 「八木さんには大分だいぶ閉口しているんですがね。昨日きのう迷亭さんが來て悪口をいったものだから、思ったほど利きかないかも知れない」 「だっていいじゃありませんか。あんな風に鷹揚おうように落ちついていれば、――こないだ學校で演説をなすったわ」 「八木さんが?」 「ええ」 「八木さんは雪江さんの學校の先生なの」 「いいえ、先生じゃないけども、淑徳しゅくとく婦人會ふじんかいのときに招待して、演説をして頂いたの」 「面白かって?」 「そうね、そんなに面白くもなかったわ。だけども、あの先生が、あんな長い顔なんでしょう。そうして天神様のような髯ひげを生やしているもんだから、みんな感心して聞いていてよ」 「御話しって、どんな御話なの?」と妻君が聞きかけていると椽側えんがわの方から、雪江さんの話し聲をききつけて、三人の子供がどたばた茶の間へ亂入して來た。今までは竹垣の外の空地あきちへ出て遊んでいたものであろう。 「あら雪江さんが來た」と二人の姉さんは嬉しそうに大きな聲を出す。妻君は「そんなに騒がないで、みんな靜かにして御坐わりなさい。雪江さんが今面白い話をなさるところだから」と仕事を隅へ片付ける。 「雪江さん何の御話し、わたし御話しが大好き」と云ったのはとん子で「やっぱりかちかち山の御話し?」と聞いたのはすん子である?!阜护肖庥悉胜痢工仍皮こ訾筏咳蠆棨葕棨伍gから膝を前の方に出す。ただしこれは御話を承うけたまわると云うのではない、坊ばもまた御話を仕つかまつると云う意味である?!袱ⅳ椤ⅳ蓼糠护肖沥悚螭卧挙馈工葕棨丹螭ΔΔ?、妻君は「坊ばはあとでなさい。雪江さんの御話がすんでから」と賺すかして見る。坊ばはなかなか聞きそうにない?!袱い洎`よ、ばぶ」と大きな聲を出す。「おお、よしよし坊ばちゃんからなさい。何と云うの?」と雪江さんは謙遜けんそんした。 「あのね。坊たん、坊たん、どこ行くのって」 「面白いのね。それから?」 「わたちは田圃たんぼへ稲刈いに」 「そう、よく知ってる事」 「御前がくうと邪魔だまになる」 「あら、くうとじゃないわ、くるとだわね」ととん子が口を出す。坊ばは相変らず「ばぶ」と一喝いっかつして直ちに姉を辟易へきえきさせる。しかし中途で口を出されたものだから、続きを忘れてしまって、あとが出て來ない?!阜护肖沥悚?、それぎりなの?」と雪江さんが聞く。 「あのね。あとでおならは御免ごめんだよ。ぷう、ぷうぷうって」 「ホホホホ、いやだ事、誰にそんな事を、教わったの?」 「御三おたんに」 「わるい御三おさんね、そんな事を教えて」と妻君は苦笑をしていたが「さあ今度は雪江さんの番だ。坊やはおとなしく聞いているのですよ」と云うと、さすがの暴君も納得なっとくしたと見えて、それぎり當分の間は沈黙した。 「八木先生の演説はこんなのよ」と雪江さんがとうとう口を切った。「昔ある辻つじの真中に大きな石地蔵があったんですってね。ところがそこがあいにく馬や車が通る大変賑にぎやかな場所だもんだから邪魔になって仕様がないんでね、町內のものが大勢寄って、相談をして、どうしてこの石地蔵を隅の方へ片づけたらよかろうって考えたんですって」 「そりゃ本當にあった話なの?」 「どうですか、そんな事は何ともおっしゃらなくってよ。――でみんながいろいろ相談をしたら、その町內で一番強い男が、そりゃ訳はありません、わたしがきっと片づけて見せますって、一人でその辻へ行って、両肌もろはだを抜いで汗を流して引っ張ったけれども、どうしても動かないんですって」 「よっぽど重い石地蔵なのね」 「ええ、それでその男が疲れてしまって、うちへ帰って寢てしまったから、町內のものはまた相談をしたんですね。すると今度は町內で一番利口な男が、私わたしに任せて御覧なさい、一番やって見ますからって、重箱のなかへ牡丹餅ぼたもちを一杯入れて、地蔵の前へ來て、『ここまでおいで』と云いながら牡丹餅を見せびらかしたんだって、地蔵だって食意地くいいじが張ってるから牡丹餅で釣れるだろうと思ったら、少しも動かないんだって。利口な男はこれではいけないと思ってね。今度は瓢簞ひょうたんへお酒を入れて、その瓢簞を片手へぶら下げて、片手へ豬口ちょこを持ってまた地蔵さんの前へ來て、さあ飲みたくはないかね、飲みたければここまでおいでと三時間ばかり、からかって見たがやはり動かないんですって」 「雪江さん、地蔵様は御腹おなかが減へらないの」ととん子がきくと「牡丹餅が食べたいな」とすん子が云った。 「利口な人は二度共しくじったから、その次には贋札にせさつを沢山こしらえて、さあ欲しいだろう、欲しければ取りにおいでと札を出したり引っ込ましたりしたがこれもまるで益やくに立たないんですって。よっぽど頑固がんこな地蔵様なのよ」 「そうね。すこし叔父さんに似ているわ」 「ええまるで叔父さんよ、しまいに利口な人も愛想あいそをつかしてやめてしまったんですとさ。それでそのあとからね、大きな法螺ほらを吹く人が出て、私わたしならきっと片づけて見せますからご安心なさいとさも容易たやすい事のように受合ったそうです」 「その法螺を吹く人は何をしたんです」 「それが面白いのよ。最初にはね巡査の服をきて、付つけ髯ひげをして、地蔵様の前へきて、こらこら、動かんとその方のためにならんぞ、警察で棄てておかんぞと威張って見せたんですとさ。今の世に警察の仮聲こわいろなんか使ったって誰も聞きゃしないわね」 「本當ね、それで地蔵様は動いたの?」 「動くもんですか、叔父さんですもの」 「でも叔父さんは警察には大変恐れ入っているのよ」 「あらそう、あんな顔をして? それじゃ、そんなに怖こわい事はないわね。けれども地蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで法螺吹は大変怒おこって、巡査の服を脫いで、付け髯を紙屑籠かみくずかごへ拋ほうり込んで、今度は大金持ちの服裝なりをして出て來たそうです。今の世で云うと巖崎男爵のような顔をするんですとさ。おかしいわね」 「巖崎のような顔ってどんな顔なの?」 「ただ大きな顔をするんでしょう。そうして何もしないで、また何も云わないで地蔵の周まわりを、大きな巻煙草まきたばこをふかしながら歩行あるいているんですとさ」 「それが何になるの?」 「地蔵様を煙けむに捲まくんです」 「まるで噺はなし家かの灑落しゃれのようね。首尾よく煙けむに捲まいたの?」 「駄目ですわ、相手が石ですもの。ごまかしもたいていにすればいいのに、今度は殿下さまに化けて來たんだって。馬鹿ね」 「へえ、その時分にも殿下さまがあるの?」 「有るんでしょう。八木先生はそうおっしゃってよ。たしかに殿下様に化けたんだって、恐れ多い事だが化けて來たって――第一不敬じゃありませんか、法螺吹ほらふきの分際ぶんざいで」 「殿下って、どの殿下さまなの」 「どの殿下さまですか、どの殿下さまだって不敬ですわ」 「そうね」 「殿下さまでも利きかないでしょう。法螺吹きもしようがないから、とても私わたしの手際てぎわでは、あの地蔵はどうする事も出來ませんと降參をしたそうです」 「いい気味ね」 「ええ、ついでに懲役ちょうえきにやればいいのに。――でも町內のものは大層気を揉もんで、また相談を開いたんですが、もう誰も引き受けるものがないんで弱ったそうです」 「それでおしまい?」 「まだあるのよ。一番しまいに車屋とゴロツキを大勢雇って、地蔵様の周まわりをわいわい騒いであるいたんです。ただ地蔵様をいじめて、いたたまれないようにすればいいと云って、夜晝交替こうたいで騒ぐんだって」 「御苦労様ですこと」 「それでも取り合わないんですとさ。地蔵様の方も隨分強情ね」 「それから、どうして?」ととん子が熱心に聞く。 「それからね、いくら毎日毎日騒いでも験げんが見えないので、大分だいぶみんなが厭いやになって來たんですが、車夫やゴロツキは幾日いくんちでも日當にっとうになる事だから喜んで騒いでいましたとさ」 「雪江さん、日當ってなに?」とすん子が質問をする。 「日當と云うのはね、御金の事なの」 「御金をもらって何にするの?」 「御金を貰ってね。……ホホホホいやなすん子さんだ。――それで叔母さん、毎日毎晩から騒ぎをしていますとね。その時町內に馬鹿竹ばかたけと云って、何なんにも知らない、誰も相手にしない馬鹿がいたんですってね。その馬鹿がこの騒ぎを見て御前方おまえがたは何でそんなに騒ぐんだ、何年かかっても地蔵一つ動かす事が出來ないのか、可哀想かわいそうなものだ、と云ったそうですって――」 「馬鹿の癖にえらいのね」 「なかなかえらい馬鹿なのよ。みんなが馬鹿竹ばかたけの云う事を聞いて、物はためしだ、どうせ駄目だろうが、まあ竹にやらして見ようじゃないかとそれから竹に頼むと、竹は一も二もなく引き受けたが、そんな邪魔な騒ぎをしないでまあ靜かにしろと車引やゴロツキを引き込まして飄然ひょうぜんと地蔵様の前へ出て來ました」 「雪江さん飄然て、馬鹿竹のお友達?」ととん子が肝心かんじんなところで奇問を放ったので、細君と雪江さんはどっと笑い出した。 「いいえお友達じゃないのよ」 「じゃ、なに?」 「飄然と云うのはね。――云いようがないわ」 「飄然て、云いようがないの?」 「そうじゃないのよ、飄然と云うのはね――」 「ええ」 「そら多々良三平たたらさんぺいさんを知ってるでしょう」 「ええ、山の芋をくれてよ」 「あの多々良さん見たようなを云うのよ」 「多々良さんは飄然なの?」 「ええ、まあそうよ。――それで馬鹿竹が地蔵様の前へ來て懐手ふところでをして、地蔵様、町內のものが、あなたに動いてくれと云うから動いてやんなさいと云ったら、地蔵様はたちまちそうか、そんなら早くそう云えばいいのに、とのこのこ動き出したそうです」 「妙な地蔵様ね」 「それからが演説よ」 「まだあるの?」 「ええ、それから八木先生がね、今日こんにちは御婦人の會でありますが、私がかような御話をわざわざ致したのは少々考があるので、こう申すと失禮かも知れませんが、婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から廻りくどい手段をとる弊へいがある。もっともこれは御婦人に限った事でない。明治の代よは男子といえども、文明の弊を受けて多少女性的になっているから、よくいらざる手數(shù)てすうと労力を費ついやして、これが本筋である、紳士のやるべき方針であると誤解しているものが多いようだが、これ等は開化の業(yè)に束縛された畸形児きけいじである。別に論ずるに及ばん。ただ御婦人に在あってはなるべくただいま申した昔話を御記憶になって、いざと云う場合にはどうか馬鹿竹のような正直な了見で物事を処理していただきたい。あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間、嫁姑よめしゅうとの間に起る忌いまわしき葛藤かっとうの三分一さんぶいちはたしかに減ぜられるに相違ない。人間は魂膽こんたんがあればあるほど、その魂膽が祟たたって不幸の源みなもとをなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂膽があり過ぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい、と云う演説なの」 「へえ、それで雪江さんは馬鹿竹になる気なの」 「やだわ、馬鹿竹だなんて。そんなものになりたくはないわ。金田の富子さんなんぞは失敬だって大変怒おこってよ」 「金田の富子さんて、あの向橫町むこうよこちょうの?」 「ええ、あのハイカラさんよ」 「あの人も雪江さんの學校へ行くの?」 「いいえ、ただ婦人會だから傍聴に來たの。本當にハイカラね。どうも驚ろいちまうわ」 「でも大変いい器量だって云うじゃありませんか」 「並ですわ。御自慢ほどじゃありませんよ。あんなに御化粧をすればたいていの人はよく見えるわ」 「それじゃ雪江さんなんぞはそのかたのように御化粧をすれば金田さんの倍くらい美しくなるでしょう」 「あらいやだ。よくってよ。知らないわ。だけど、あの方かたは全くつくり過ぎるのね。なんぼ御金があったって――」 「つくり過ぎても御金のある方がいいじゃありませんか」 「それもそうだけれども――あの方かたこそ、少し馬鹿竹になった方がいいでしょう。無暗むやみに威張るんですもの。この間もなんとか云う詩人が新體詩集を捧げたって、みんなに吹聴ふいちょうしているんですもの」 「東風さんでしょう」 「あら、あの方が捧げたの、よっぽど物數(shù)奇ものずきね」 「でも東風さんは大変真面目なんですよ。自分じゃ、あんな事をするのが當前あたりまえだとまで思ってるんですもの」 「そんな人があるから、いけないんですよ。――それからまだ面白い事があるの。此間こないだだれか、あの方の所とこへ艶書えんしょを送ったものがあるんだって」 「おや、いやらしい。誰なの、そんな事をしたのは」 「誰だかわからないんだって」 「名前はないの?」 「名前はちゃんと書いてあるんだけれども聞いた事もない人だって、そうしてそれが長い長い一間ばかりもある手紙でね。いろいろな妙な事がかいてあるんですとさ。私わたしがあなたを戀おもっているのは、ちょうど宗教家が神にあこがれているようなものだの、あなたのためならば祭壇に供える小羊となって屠ほふられるのが無上の名譽であるの、心臓の形かたちが三角で、三角の中心にキューピッドの矢が立って、吹き矢なら大當りであるの……」 「そりゃ真面目なの?」 「真面目なんですとさ?,F(xiàn)にわたしの御友達のうちでその手紙を見たものが三人あるんですもの」 「いやな人ね、そんなものを見せびらかして。あの方は寒月さんのとこへ御嫁に行くつもりなんだから、そんな事が世間へ知れちゃ困るでしょうにね」 「困るどころですか大得意よ。こんだ寒月さんが來たら、知らして上げたらいいでしょう。寒月さんはまるで御存じないんでしょう」 「どうですか、あの方は學校へ行って球たまばかり磨いていらっしゃるから、大方知らないでしょう」 「寒月さんは本當にあの方を御貰おもらいになる気なんでしょうかね。御気の毒だわね」 「なぜ? 御金があって、いざって時に力になって、いいじゃありませんか」 「叔母さんは、じきに金、金って品ひんがわるいのね。金より愛の方が大事じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ」 「そう、それじゃ雪江さんは、どんなところへ御嫁に行くの?」 「そんな事知るもんですか、別に何もないんですもの」 雪江さんと叔母さんは結婚事件について何か弁論を逞たくましくしていると、さっきから、分らないなりに謹聴しているとん子が突然口を開いて「わたしも御嫁に行きたいな」と云いだした。この無鉄砲な希望には、さすが青春の気に満ちて、大おおいに同情を寄すべき雪江さんもちょっと毒気を抜かれた體ていであったが、細君の方は比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑ながら聞いて見た。 「わたしねえ、本當はね、招魂社しょうこんしゃへ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」 細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。 「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好いいわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」 「坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を揃そろえて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。 ところへ車の音ががらがらと門前に留ったと思ったら、たちまち威勢のいい御帰りと云う聲がした。主人は日本堤分署から戻ったと見える。車夫が差出す大きな風呂敷包を下女に受け取らして、主人は悠然ゆうぜんと茶の間へ這入はいって來る?!袱浃ⅰ恧郡汀工妊┙丹螭税ま伽筏胜?、例の有名なる長火鉢の傍そばへ、ぽかりと手に攜たずさえた徳利様とっくりようのものを拋ほうり出した。徳利様と云うのは純然たる徳利では無論ない、と云って花活はないけとも思われない、ただ一種異様の陶器であるから、やむを得ずしばらくかように申したのである。 「妙な徳利ね、そんなものを警察から貰っていらしったの」と雪江さんが、倒れた奴を起しながら叔父さんに聞いて見る。叔父さんは、雪江さんの顔を見ながら、「どうだ、いい恰好かっこうだろう」と自慢する。 「いい恰好なの? それが? あんまりよかあないわ? 油壺あぶらつぼなんか何で持っていらっしったの?」 「油壺なものか。そんな趣味のない事を云うから困る」 「じゃ、なあに?」 「花活はないけさ」 「花活にしちゃ、口が小ちいさ過ぎて、いやに胴が張ってるわ」 「そこが面白いんだ。御前も無風流だな。まるで叔母さんと択えらぶところなしだ。困ったものだな」と獨ひとりで油壺を取り上げて、障子しょうじの方へ向けて眺ながめている。 「どうせ無風流ですわ。油壺を警察から貰ってくるような真似は出來ないわ。ねえ叔母さん」叔母さんはそれどころではない、風呂敷包を解といて皿眼さらまなこになって、盜難品を検しらべている。「おや驚ろいた。泥棒も進歩したのね。みんな、解いて洗い張をしてあるわ。ねえちょいと、あなた」 「誰が警察から油壺を貰ってくるものか。待ってるのが退屈だから、あすこいらを散歩しているうちに堀り出して來たんだ。御前なんぞには分るまいがそれでも珍品だよ」 「珍品過ぎるわ。一體叔父さんはどこを散歩したの」 「どこって日本堤にほんづつみ界隈かいわいさ。吉原へも這入はいって見た。なかなか盛さかんな所だ。あの鉄の門を観みた事があるかい。ないだろう」 「だれが見るもんですか。吉原なんて賤業(yè)婦せんぎょうふのいる所へ行く因縁いんねんがありませんわ。叔父さんは教師の身で、よくまあ、あんな所へ行かれたものねえ。本當に驚ろいてしまうわ。ねえ叔母さん、叔母さん」 「ええ、そうね。どうも品數(shù)しなかずが足りないようだ事。これでみんな戻ったんでしょうか」 「戻らんのは山の芋ばかりさ。元來九時に出頭しろと云いながら十一時まで待たせる法があるものか、これだから日本の警察はいかん」 「日本の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃなおいけないわ。そんな事が知れると免職になってよ。ねえ叔母さん」 「ええ、なるでしょう。あなた、私の帯の片側かたかわがないんです。何だか足りないと思ったら」 「帯の片側くらいあきらめるさ。こっちは三時間も待たされて、大切の時間を半日潰つぶしてしまった」と日本服に著代えて平気に火鉢へもたれて油壺を眺ながめている。細君も仕方がないと諦あきらめて、戻った品をそのまま戸棚へしまい込こんで座に帰る。 「叔母さん、この油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか」 「それを吉原で買っていらしったの? まあ」 「何がまあだ。分りもしない癖に」 「それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだってあるじゃありませんか」 「ところがないんだよ。滅多めったに有る品ではないんだよ」 「叔父さんは隨分石地蔵いしじぞうね」 「また小供の癖に生意気を云う。どうもこの頃の女學生は口が悪るくっていかん。ちと女大學でも読むがいい」 「叔父さんは保険が嫌きらいでしょう。女學生と保険とどっちが嫌なの?」 「保険は嫌ではない。あれは必要なものだ。未來の考のあるものは、誰でも這入はいる。女學生は無用の長物だ」 「無用の長物でもいい事よ。保険へ這入ってもいない癖に」 「來月から這入るつもりだ」 「きっと?」 「きっとだとも」 「およしなさいよ、保険なんか。それよりかその懸金かけきんで何か買った方がいいわ。ねえ、叔母さん」叔母さんはにやにや笑っている。主人は真面目になって 「お前などは百も二百も生きる気だから、そんな呑気のんきな事を云うのだが、もう少し理性が発達して見ろ、保険の必要を感ずるに至るのは當前あたりまえだ。ぜひ來月から這入るんだ」 「そう、それじゃ仕方がない。だけどこないだのように蝙蝠傘こうもりを買って下さる御金があるなら、保険に這入る方がましかも知れないわ。ひとがいりません、いりませんと云うのを無理に買って下さるんですもの」 「そんなにいらなかったのか?」 「ええ、蝙蝠傘なんか欲しかないわ」 「そんなら還かえすがいい。ちょうどとん子が欲しがってるから、あれをこっちへ廻してやろう。今日持って來たか」 「あら、そりゃ、あんまりだわ。だって苛ひどいじゃありませんか、せっかく買って下すっておきながら、還せなんて」 「いらないと云うから、還せと云うのさ。ちっとも苛くはない」 「いらない事はいらないんですけれども、苛いわ」 「分らん事を言う奴だな。いらないと云うから還せと云うのに苛い事があるものか」 「だって」 「だって、どうしたんだ」 「だって苛いわ」 「愚ぐだな、同じ事ばかり繰り返している」 「叔父さんだって同じ事ばかり繰り返しているじゃありませんか」 「御前が繰り返すから仕方がないさ?,F(xiàn)にいらないと云ったじゃないか」 「そりゃ云いましたわ。いらない事はいらないんですけれども、還すのは厭いやですもの」 「驚ろいたな。沒分暁わからずやで強情なんだから仕方がない。御前の學校じゃ論理學を教えないのか」 「よくってよ、どうせ無教育なんですから、何とでもおっしゃい。人のものを還せだなんて、他人だってそんな不人情な事は云やしない。ちっと馬鹿竹ばかたけの真似でもなさい」 「何の真似をしろ?」 「ちと正直に淡泊たんぱくになさいと云うんです」 「お前は愚物の癖にやに強情だよ。それだから落第するんだ」 「落第したって叔父さんに學資は出して貰やしないわ」 雪江さんは言げんここに至って感に堪たえざるもののごとく、潸然さんぜんとして一掬いっきくの涙なんだを紫の袴はかまの上に落した。主人は茫乎ぼうことして、その涙がいかなる心理作用に起因するかを研究するもののごとく、袴の上と、俯うつ向いた雪江さんの顔を見つめていた。ところへ御三おさんが臺所から赤い手を敷居越に揃そろえて「お客さまがいらっしゃいました」と云う?!刚lが來たんだ」と主人が聞くと「學校の生徒さんでございます」と御三は雪江さんの泣顔を橫目に睨にらめながら答えた。主人は客間へ出て行く。吾輩も種取り兼けん人間研究のため、主人に尾びして忍びやかに椽えんへ廻った。人間を研究するには何か波瀾がある時を択えらばないと一向いっこう結果が出て來ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用のためにむくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、異いなもの、一と口に云えば吾輩貓共から見てすこぶる後學になるような事件が至るところに橫風おうふうにあらわれてくる。雪江さんの紅涙こうるいのごときはまさしくその現(xiàn)象の一つである。かくのごとく不可思議、不可測ふかそくの心を有している雪江さんも、細君と話をしているうちはさほどとも思わなかったが、主人が帰ってきて油壺を拋ほうり出すやいなや、たちまち死竜しりゅうに蒸汽喞筒じょうきポンプを注ぎかけたるごとく、勃然ぼつぜんとしてその深奧しんおうにして窺知きちすべからざる、巧妙なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる、麗質を、惜気もなく発揚し了おわった。しかしてその麗質は天下の女性にょしょうに共通なる麗質である。ただ惜しい事には容易にあらわれて來ない。否いやあらわれる事は二六時中間斷なくあらわれているが、かくのごとく顕著に灼然炳乎しゃくぜんへいことして遠慮なくはあらわれて來ない。幸にして主人のように吾輩の毛をややともすると逆さに撫なでたがる旋毛曲つむじまがりの奇特家きどくかがおったから、かかる狂言も拝見が出來たのであろう。主人のあとさえついてあるけば、どこへ行っても舞臺の役者は吾知らず動くに相違ない。面白い男を旦那様に戴いただいて、短かい貓の命のうちにも、大分だいぶ多くの経験が出來る。ありがたい事だ。今度のお客は何者であろう。 見ると年頃は十七八、雪江さんと追おっつ、返かっつの書生である。大きな頭を地じの隙すいて見えるほど刈り込んで団子だんごっ鼻ぱなを顔の真中にかためて、座敷の隅の方に控ひかえている。別にこれと云う特徴もないが頭蓋骨ずがいこつだけはすこぶる大きい。青坊主に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、主人のように長く延ばしたら定めし人目を惹ひく事だろう。こんな顔にかぎって學問はあまり出來ない者だとは、かねてより主人の持説である。事実はそうかも知れないがちょっと見るとナポレオンのようですこぶる偉観である。著物は通例の書生のごとく、薩摩絣さつまがすりか、久留米くるめがすりかまた伊予いよ絣か分らないが、ともかくも絣かすりと名づけられたる袷あわせを袖短かに著こなして、下には襯衣シャツも襦袢じゅばんもないようだ。素袷すあわせや素足すあしは意気なものだそうだが、この男のはなはだむさ苦しい感じを與える。ことに畳の上に泥棒のような親指を歴然と三つまで印いんしているのは全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の上へちゃんと坐って、さも窮屈そうに畏かしこまっている。一體かしこまるべきものがおとなしく控ひかえるのは別段気にするにも及ばんが、毬栗頭いがぐりあたまのつんつるてんの亂暴者が恐縮しているところは何となく不調和なものだ。途中で先生に逢ってさえ禮をしないのを自慢にするくらいの連中が、たとい三十分でも人並に坐るのは苦しいに違ない。ところを生れ得て恭謙きょうけんの君子、盛徳の長者ちょうしゃであるかのごとく構えるのだから、當人の苦しいにかかわらず傍はたから見ると大分だいぶおかしいのである。教場もしくは運動場であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を箝束かんそくする力を具そなえているかと思うと、憐れにもあるが滑稽こっけいでもある。こうやって一人ずつ相対あいたいになると、いかに愚騃ぐがいなる主人といえども生徒に対して幾分かの重みがあるように思われる。主人も定めし得意であろう。塵ちり積って山をなすと云うから、微々たる一生徒も多勢たぜいが聚合しゅうごうすると侮あなどるべからざる団體となって、排斥はいせき運動やストライキをしでかすかも知れない。これはちょうど臆病者が酒を飲んで大膽になるような現(xiàn)象であろう。衆(zhòng)を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて差支さしつかえあるまい。それでなければかように恐れ入ると云わんよりむしろ悄然しょうぜんとして、自みずから襖ふすまに押し付けられているくらいな薩摩絣が、いかに老朽だと云って、茍かりそめにも先生と名のつく主人を軽蔑けいべつしようがない。馬鹿に出來る訳がない。 主人は座布団ざぶとんを押しやりながら、「さあお敷き」と云ったが毬栗先生はかたくなったまま「へえ」と云って動かない。鼻の先に剝はげかかった更紗さらさの座布団が「御乗んなさい」とも何とも云わずに著席している後うしろに、生きた大頭がつくねんと著席しているのは妙なものだ。布団は乗るための布団で見詰めるために細君が勧工場から仕入れて來たのではない。布団にして敷かれずんば、布団はまさしくその名譽を毀損きそんせられたるもので、これを勧めたる主人もまた幾分か顔が立たない事になる。主人の顔を潰つぶしてまで、布団と睨にらめくらをしている毬栗君は決して布団その物が嫌きらいなのではない。実を云うと、正式に坐った事は祖父じいさんの法事の時のほかは生れてから滅多めったにないので、先さっきからすでにしびれが切れかかって少々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敷かない。布団が手持無沙汰に控ひかえているにもかかわらず敷かない。主人がさあお敷きと云うのに敷かない。厄介な毬栗坊主だ。このくらい遠慮するなら多人數(shù)たにんず集まった時もう少し遠慮すればいいのに、學校でもう少し遠慮すればいいのに、下宿屋でもう少し遠慮すればいいのに。すまじきところへ気兼きがねをして、すべき時には謙遜けんそんしない、否大おおいに狼藉ろうぜきを働らく。たちの悪るい毬栗坊主だ。 ところへ後うしろの襖ふすまをすうと開けて、雪江さんが一碗の茶を恭うやうやしく坊主に供した。平生なら、そらサヴェジ?チーが出たと冷ひやかすのだが、主人一人に対してすら痛み入いっている上へ、妙齢の女性にょしょうが學校で覚え立ての小笠原流おがさわらりゅうで、乙おつに気取った手つきをして茶碗を突きつけたのだから、坊主は大おおいに苦悶くもんの體ていに見える。雪江さんは襖ふすまをしめる時に後ろからにやにやと笑った。して見ると女は同年輩でもなかなかえらいものだ。坊主に比すれば遙はるかに度胸が據(jù)すわっている。ことに先刻さっきの無念にはらはらと流した一滴の紅涙こうるいのあとだから、このにやにやがさらに目立って見えた。 雪江さんの引き込んだあとは、雙方無言のまま、しばらくの間は辛防しんぼうしていたが、これでは業(yè)ぎょうをするようなものだと気がついた主人はようやく口を開いた。 「君は何とか云ったけな」 「古井ふるい……」 「古井? 古井何とかだね。名は」 「古井武右衛(wèi)門ぶえもん」 「古井武右衛(wèi)門――なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね」 「いいえ」 「三年生か?」 「いいえ、二年生です」 「甲の組かね」 「乙です」 「乙なら、わたしの監(jiān)督だね。そうか」と主人は感心している。実はこの大頭は入學の當時から、主人の眼についているんだから、決して忘れるどころではない。のみならず、時々は夢に見るくらい感銘した頭である。しかし呑気のんきな主人はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したものをまた二年乙組に連結する事が出來なかったのである。だからこの夢に見るほど感心した頭が自分の監(jiān)督組の生徒であると聞いて、思わずそうかと心の裏うちで手を拍うったのである。しかしこの大きな頭の、古い名の、しかも自分の監(jiān)督する生徒が何のために今頃やって來たのか頓とんと推諒すいりょう出來ない。元來不人望な主人の事だから、學校の生徒などは正月だろうが暮だろうがほとんど寄りついた事がない。寄りついたのは古井武右衛(wèi)門君をもって嚆矢こうしとするくらいな珍客であるが、その來訪の主意がわからんには主人も大おおいに閉口しているらしい。こんな面白くない人の家うちへただ遊びにくる訳もなかろうし、また辭職勧告ならもう少し昂然こうぜんと構え込みそうだし、と云って武右衛(wèi)門君などが一身上の用事相談があるはずがないし、どっちから、どう考えても主人には分らない。武右衛(wèi)門君の様子を見るとあるいは本人自身にすら何で、ここまで參ったのか判然しないかも知れない。仕方がないから主人からとうとう表向に聞き出した。 「君遊びに來たのか」 「そうじゃないんです」 「それじゃ用事かね」 「ええ」 「學校の事かい」 「ええ、少し御話ししようと思って……」 「うむ。どんな事かね。さあ話したまえ」と云うと武右衛(wèi)門君下を向いたぎり何なんにも言わない。元來武右衛(wèi)門君は中學の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、喋舌しゃべる事においては乙組中鏘々そうそうたるものである。現(xiàn)にせんだってコロンバスの日本訳を教えろと云って大おおいに主人を困らしたはまさにこの武右衛(wèi)門君である。その鏘々たる先生が、最前さいぜんから吃どもりの御姫様のようにもじもじしているのは、何か云いわくのある事でなくてはならん。単に遠慮のみとはとうてい受け取られない。主人も少々不審に思った。 「話す事があるなら、早く話したらいいじゃないか」 「少し話しにくい事で……」 「話しにくい?」と云いながら主人は武右衛(wèi)門君の顔を見たが、先方は依然として俯向うつむきになってるから、何事とも鑑定が出來ない。やむを得ず、少し語勢を変えて「いいさ。何でも話すがいい。ほかに誰も聞いていやしない。わたしも他言たごんはしないから」と穏おだやかにつけ加えた。 「話してもいいでしょうか?」と武右衛(wèi)門君はまだ迷っている。 「いいだろう」と主人は勝手な判斷をする。 「では話しますが」といいかけて、毬栗頭いがぐりあたまをむくりと持ち上げて主人の方をちょっとまぼしそうに見た。その眼は三角である。主人は頬をふくらまして朝日の煙を吹き出しながらちょっと橫を向いた。 「実はその……困った事になっちまって……」 「何が?」 「何がって、はなはだ困るもんですから、來たんです」 「だからさ、何が困るんだよ」 「そんな事をする考はなかったんですけれども、浜田はまだが借せ借せと云うもんですから……」 「浜田と云うのは浜田平助へいすけかい」 「ええ」 「浜田に下宿料でも借したのかい」 「何そんなものを借したんじゃありません」 「じゃ何を借したんだい」 「名前を借したんです」 「浜田が君の名前を借りて何をしたんだい」 「艶書えんしょを送ったんです」 「何を送った?」 「だから、名前は廃よして、投函役とうかんやくになると云ったんです」 「何だか要領を得んじゃないか。一體誰が何をしたんだい」 「艶書えんしょを送ったんです」 「艶書を送った? 誰に?」 「だから、話しにくいと云うんです」 「じゃ君が、どこかの女に艶書を送ったのか」 「いいえ、僕じゃないんです」 「浜田が送ったのかい」 「浜田でもないんです」 「じゃ誰が送ったんだい」 「誰だか分らないんです」 「ちっとも要領を得ないな。では誰も送らんのかい」 「名前だけは僕の名なんです」 「名前だけは君の名だって、何の事だかちっとも分らんじゃないか。もっと條理を立てて話すがいい。元來その艶書を受けた當人はだれか」 「金田って向橫丁むこうよこちょうにいる女です」 「あの金田という実業(yè)家か」 「ええ」 「で、名前だけ借したとは何の事だい」 「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。――浜田が名前がなくちゃいけないって云いますから、君の名前をかけって云ったら、僕のじゃつまらない。古井武右衛(wèi)門の方がいいって――それで、とうとう僕の名を借してしまったんです」 「で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか」 「交際も何もありゃしません。顔なんか見た事もありません」 「亂暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどう云う了見で、そんな事をしたんだい」 「ただみんながあいつは生意気で威張ってるて云うから、からかってやったんです」 「ますます亂暴だな。じゃ君の名を公然とかいて送ったんだな」 「ええ、文章は浜田が書いたんです。僕が名前を借して遠藤が夜あすこのうちまで行って投函して來たんです」 「じゃ三人で共同してやったんだね」 「ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退學にでもなると大変だと思って、非常に心配して二三日にさんちは寢られないんで、何だか茫ぼんやりしてしまいました」 「そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。それで文明中學二年生古井武右衛(wèi)門とでもかいたのかい」 「いいえ、學校の名なんか書きゃしません」 「學校の名を書かないだけまあよかった。これで學校の名が出て見るがいい。それこそ文明中學の名譽に関する」 「どうでしょう退校になるでしょうか」 「そうさな」 「先生、僕のおやじさんは大変やかましい人で、それにお母っかさんが継母ままははですから、もし退校にでもなろうもんなら、僕あ困っちまうです。本當に退校になるでしょうか」 「だから滅多めったな真似をしないがいい」 「する気でもなかったんですが、ついやってしまったんです。退校にならないように出來ないでしょうか」と武右衛(wèi)門君は泣き出しそうな聲をしてしきりに哀願に及んでいる。襖ふすまの蔭では最前さいぜんから細君と雪江さんがくすくす笑っている。主人は飽あくまでももったいぶって「そうさな」を繰り返している。なかなか面白い。 吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのはもっともだ。人間にせよ、動物にせよ、己おのれを知るのは生涯しょうがいの大事である。己おのれを知る事が出來さえすれば人間も人間として貓より尊敬を受けてよろしい。その時は吾輩もこんないたずらを書くのは気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである。しかし自分で自分の鼻の高さが分らないと同じように、自己の何物かはなかなか見當けんとうがつき悪にくいと見えて、平生から軽蔑けいべつしている貓に向ってさえかような質問をかけるのであろう。人間は生意気なようでもやはり、どこか抜けている。萬物の霊だなどとどこへでも萬物の霊を擔かついであるくかと思うと、これしきの事実が理解出來ない。しかも恬てんとして平然たるに至ってはちと一噱いっきゃくを催したくなる。彼は萬物の霊を背中せなかへ擔かついで、おれの鼻はどこにあるか教えてくれ、教えてくれと騒ぎ立てている。それなら萬物の霊を辭職するかと思うと、どう致して死んでも放しそうにしない。このくらい公然と矛盾をして平気でいられれば愛嬌あいきょうになる。愛嬌になる代りには馬鹿をもって甘あまんじなくてはならん。 吾輩がこの際武右衛(wèi)門君と、主人と、細君及雪江嬢を面白がるのは、単に外部の事件が鉢合はちあわせをして、その鉢合せが波動を乙おつなところに伝えるからではない。実はその鉢合の反響が人間の心に個々別々の音色ねいろを起すからである。第一主人はこの事件に対してむしろ冷淡である。武右衛(wèi)門君のおやじさんがいかにやかましくって、おっかさんがいかに君を継子ままこあつかいにしようとも、あんまり驚ろかない。驚ろくはずがない。武右衛(wèi)門君が退校になるのは、自分が免職になるのとは大おおいに趣おもむきが違う。千人近くの生徒がみんな退校になったら、教師も衣食の途みちに窮するかも知れないが、古井武右衛(wèi)門君一人いちにんの運命がどう変化しようと、主人の朝夕ちょうせきにはほとんど関係がない。関係の薄いところには同情も自おのずから薄い訳である。見ず知らずの人のために眉まゆをひそめたり、鼻をかんだり、嘆息をするのは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに情深なさけぶかい、思いやりのある動物であるとははなはだ受け取りにくい。ただ世の中に生れて來た賦稅ふぜいとして、時々交際のために涙を流して見たり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。云わばごまかし性せい表情で、実を云うと大分だいぶ骨が折れる蕓術である。このごまかしをうまくやるものを蕓術的良心の強い人と云って、これは世間から大変珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分る。この點において主人はむしろ拙せつな部類に屬すると云ってよろしい。拙だから珍重されない。珍重されないから、內部の冷淡を存外隠すところもなく発表している。彼が武右衛(wèi)門君に対して「そうさな」を繰り返しているのでも這裏しゃりの消息はよく分る。諸君は冷淡だからと云って、けっして主人のような善人を嫌ってはいけない。冷淡は人間の本來の性質であって、その性質をかくそうと力つとめないのは正直な人である。もし諸君がかかる際に冷淡以上を望んだら、それこそ人間を買い被かぶったと云わなければならない。正直ですら払底ふっていな世にそれ以上を予期するのは、馬琴ばきんの小説から志乃しのや小文吾こぶんごが抜けだして、向う三軒両隣へ八犬伝はっけんでんが引き越した時でなくては、あてにならない無理な注文である。主人はまずこのくらいにして、次には茶の間で笑ってる女連おんなれんに取りかかるが、これは主人の冷淡を一歩向むこうへ跨またいで、滑稽こっけいの領分に躍おどり込んで嬉しがっている。この女連には武右衛(wèi)門君が頭痛に病んでいる艶書事件が、仏陀ぶっだの福音ふくいんのごとくありがたく思われる。理由はないただありがたい。強いて解剖すれば武右衛(wèi)門君が困るのがありがたいのである。諸君女に向って聞いて御覧、「あなたは人が困るのを面白がって笑いますか」と。聞かれた人はこの問を呈出した者を馬鹿と云うだろう、馬鹿と云わなければ、わざとこんな問をかけて淑女の品性を侮辱したと云うだろう。侮辱したと思うのは事実かも知れないが、人の困るのを笑うのも事実である。であるとすれば、これから私わたしの品性を侮辱するような事を自分でしてお目にかけますから、何とか云っちゃいやよと斷わるのと一般である。僕は泥棒をする。しかしけっして不道徳と云ってはならん。もし不道徳だなどと云えば僕の顔へ泥を塗ったものである。僕を侮辱したものである。と主張するようなものだ。女はなかなか利口だ、考えに筋道が立っている。いやしくも人間に生れる以上は踏んだり、蹴けたり、どやされたりして、しかも人が振りむきもせぬ時、平気でいる覚悟が必用であるのみならず、唾を吐きかけられ、糞をたれかけられた上に、大きな聲で笑われるのを快よく思わなくてはならない。それでなくてはかように利口な女と名のつくものと交際は出來ない。武右衛(wèi)門先生もちょっとしたはずみから、とんだ間違をして大おおいに恐れ入ってはいるようなものの、かように恐れ入ってるものを蔭で笑うのは失敬だとくらいは思うかも知れないが、それは年が行かない稚気ちきというもので、人が失禮をした時に怒おこるのを気が小さいと先方では名づけるそうだから、そう云われるのがいやならおとなしくするがよろしい。最後に武右衛(wèi)門君の心行きをちょっと紹介する。君は心配の権化ごんげである。かの偉大なる頭脳はナポレオンのそれが功名心をもって充満せるがごとく、まさに心配をもってはちきれんとしている。時々その団子っ鼻がぴくぴく動くのは心配が顔面神経に伝つたわって、反射作用のごとく無意識に活動するのである。彼は大きな鉄砲丸てっぽうだまを飲み下くだしたごとく、腹の中にいかんともすべからざる塊かたまりを抱いだいて、この両三日りょうさんち処置に窮している。その切なさの余り、別に分別の出所でどころもないから監(jiān)督と名のつく先生のところへ出向いたら、どうか助けてくれるだろうと思って、いやな人の家うちへ大きな頭を下げにまかり越したのである。彼は平生學校で主人にからかったり、同級生を煽動せんどうして、主人を困らしたりした事はまるで忘れている。いかにからかおうとも困らせようとも監(jiān)督と名のつく以上は心配してくれるに相違ないと信じているらしい。隨分単純なものだ。監(jiān)督は主人が好んでなった役ではない。校長の命によってやむを得ずいただいている、云わば迷亭の叔父さんの山高帽子の種類である。ただ名前である。ただ名前だけではどうする事も出來ない。名前がいざと云う場合に役に立つなら雪江さんは名前だけで見合が出來る訳だ。武右衛(wèi)門君はただに我儘わがままなるのみならず、他人は己おのれに向って必ず親切でなくてはならんと云う、人間を買い被かぶった仮定から出立している。笑われるなどとは思も寄らなかったろう。武右衛(wèi)門君は監(jiān)督の家うちへ來て、きっと人間について、一の真理を発明したに相違ない。彼はこの真理のために將來ますます本當の人間になるだろう。人の心配には冷淡になるだろう、人の困る時には大きな聲で笑うだろう。かくのごとくにして天下は未來の武右衛(wèi)門君をもって充みたされるであろう。金田君及び金田令夫人をもって充たされるであろう。吾輩は切に武右衛(wèi)門君のために瞬時も早く自覚して真人間まにんげんになられん事を希望するのである。しからずんばいかに心配するとも、いかに後悔するとも、いかに善に移るの心が切実なりとも、とうてい金田君のごとき成功は得られんのである。いな社會は遠からずして君を人間の居住地以外に放逐するであろう。文明中學の退校どころではない。 かように考えて面白いなと思っていると、格子こうしががらがらとあいて、玄関の障子しょうじの蔭から顔が半分ぬうと出た。 「先生」 主人は武右衛(wèi)門君に「そうさな」を繰り返していたところへ、先生と玄関から呼ばれたので、誰だろうとそっちを見ると半分ほど筋違すじかいに障子から食はみ出している顔はまさしく寒月君である?!袱ぁ⒂@入おはいり」と云ったぎり坐っている。 「御客ですか」と寒月君はやはり顔半分で聞き返している。 「なに構わん、まあ御上おあがり」 「実はちょっと先生を誘いに來たんですがね」 「どこへ行くんだい。また赤坂かい。あの方面はもう御免だ。せんだっては無闇むやみにあるかせられて、足が棒のようになった」 「今日は大丈夫です。久し振りに出ませんか」 「どこへ出るんだい。まあ御上がり」 「上野へ行って虎の鳴き聲を聞こうと思うんです」 「つまらんじゃないか、それよりちょっと御上り」 寒月君はとうてい遠方では談判不調と思ったものか、靴を脫いでのそのそ上がって來た。例のごとく鼠色ねずみいろの、尻につぎの中あたったずぼんを穿はいているが、これは時代のため、もしくは尻の重いために破れたのではない、本人の弁解によると近頃自転車の稽古を始めて局部に比較的多くの摩擦を與えるからである。未來の細君をもって矚目しょくもくされた本人へ文ふみをつけた戀の仇あだとは夢にも知らず、「やあ」と云って武右衛(wèi)門君に軽く會釈えしゃくをして椽側えんがわへ近い所へ座をしめた。 「虎の鳴き聲を聞いたって詰らないじゃないか」 「ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時頃になって、上野へ行くんです」 「へえ」 「すると公園內の老木は森々しんしんとして物凄ものすごいでしょう」 「そうさな、晝間より少しは淋さみしいだろう」 「それで何でもなるべく樹きの茂った、晝でも人の通らない所を択よってあるいていると、いつの間まにか紅塵萬丈こうじんばんじょうの都會に住んでる気はなくなって、山の中へ迷い込んだような心持ちになるに相違ないです」 「そんな心持ちになってどうするんだい」 「そんな心持ちになって、しばらく佇たたずんでいるとたちまち動物園のうちで、虎が鳴くんです」 「そう旨うまく鳴くかい」 「大丈夫鳴きます。あの鳴き聲は晝でも理科大學へ聞えるくらいなんですから、深夜闃寂げきせきとして、四望しぼう人なく、鬼気肌はだえに逼せまって、魑魅ちみ鼻を衝つく際さいに……」 「魑魅鼻を衝くとは何の事だい」 「そんな事を云うじゃありませんか、怖こわい時に」 「そうかな。あんまり聞かないようだが。それで」 「それで虎が上野の老杉ろうさんの葉をことごとく振い落すような勢で鳴くでしょう。物凄いでさあ」 「そりゃ物凄いだろう」 「どうです冒険に出掛けませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どうしても虎の鳴き聲は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとはいわれないだろうと思うんです」 「そうさな」と主人は武右衛(wèi)門君の哀願に冷淡であるごとく、寒月君の探検にも冷淡である。 この時まで黙然もくねんとして虎の話を羨うらやましそうに聞いていた武右衛(wèi)門君は主人の「そうさな」で再び自分の身の上を思い出したと見えて、「先生、僕は心配なんですが、どうしたらいいでしょう」とまた聞き返す。寒月君は不審な顔をしてこの大きな頭を見た。吾輩は思う仔細しさいあってちょっと失敬して茶の間へ廻る。 茶の間では細君がくすくす笑いながら、京焼の安茶碗に番茶を浪々なみなみと注ついで、アンチモニーの茶托ちゃたくの上へ載せて、 「雪江さん、憚はばかりさま、これを出して來て下さい」 「わたし、いやよ」 「どうして」と細君は少々驚ろいた體ていで笑いをはたと留める。 「どうしてでも」と雪江さんはやにすました顔を即席にこしらえて、傍そばにあった読売新聞の上にのしかかるように眼を落した。細君はもう一応協(xié)商きょうしょうを始める。 「あら妙な人ね。寒月さんですよ。構やしないわ」 「でも、わたし、いやなんですもの」と読売新聞の上から眼を放さない。こんな時に一字も読めるものではないが、読んでいないなどとあばかれたらまた泣き出すだろう。 「ちっとも恥かしい事はないじゃありませんか」と今度は細君笑いながら、わざと茶碗を読売新聞の上へ押しやる。雪江さんは「あら人の悪るい」と新聞を茶碗の下から、抜こうとする拍子に茶托ちゃたくに引きかかって、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目へ流れ込む。「それ御覧なさい」と細君が云うと、雪江さんは「あら大変だ」と臺所へ馳かけ出して行った。雑巾ぞうきんでも持ってくる了見りょうけんだろう。吾輩にはこの狂言がちょっと面白かった。 寒月君はそれとも知らず座敷で妙な事を話している。 「先生障子しょうじを張り易かえましたね。誰が張ったんです」 「女が張ったんだ。よく張れているだろう」 「ええなかなかうまい。あの時々おいでになる御嬢さんが御張りになったんですか」 「うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると云って威張ってるぜ」 「へえ、なるほど」と云いながら寒月君障子を見つめている。 「こっちの方は平たいらですが、右の端はじは紙が余って波が出來ていますね」 「あすこが張りたてのところで、もっとも経験の乏とぼしい時に出來上ったところさ」 「なるほど、少し御手際おてぎわが落ちますね。あの表面は超絶的ちょうぜつてき曲線きょくせんでとうてい普通のファンクションではあらわせないです」と、理學者だけにむずかしい事を云うと、主人は 「そうさね」と好い加減な挨拶をした。 この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込がないと思い切った武右衛(wèi)門君は突然かの偉大なる頭蓋骨ずがいこつを畳の上に圧おしつけて、無言の裡うちに暗に訣別けつべつの意を表した。主人は「帰るかい」と云った。武右衛(wèi)門君は悄然しょうぜんとして薩摩下駄を引きずって門を出た??蓯巯毪铯い饯Δ?。打ちゃって置くと巌頭がんとうの吟ぎんでも書いて華厳滝けごんのたきから飛び込むかも知れない。元を糺ただせば金田令嬢のハイカラと生意気から起った事だ。もし武右衛(wèi)門君が死んだら、幽霊になって令嬢を取り殺してやるがいい。あんなものが世界から一人や二人消えてなくなったって、男子はすこしも困らない。寒月君はもっと令嬢らしいのを貰うがいい。 「先生ありゃ生徒ですか」 「うん」 「大変大きな頭ですね。學問は出來ますか」 「頭の割には出來ないがね、時々妙な質問をするよ。こないだコロンバスを訳して下さいって大おおいに弱った」 「全く頭が大き過ぎますからそんな余計な質問をするんでしょう。先生何とおっしゃいました」 「ええ? なあに好いい加減な事を云って訳してやった」 「それでも訳す事は訳したんですか、こりゃえらい」 「小供は何でも訳してやらないと信用せんからね」 「先生もなかなか政治家になりましたね。しかし今の様子では、何だか非常に元気がなくって、先生を困らせるようには見えないじゃありませんか」 「今日は少し弱ってるんだよ。馬鹿な奴だよ」 「どうしたんです。何だかちょっと見たばかりで非常に可哀想かわいそうになりました。全體どうしたんです」 「なに愚ぐな事さ。金田の娘に艶書えんしょを送ったんだ」 「え? あの大頭がですか。近頃の書生はなかなかえらいもんですね。どうも驚ろいた」 「君も心配だろうが……」 「何ちっとも心配じゃありません。かえって面白いです。いくら、艶書が降り込んだって大丈夫です」 「そう君が安心していれば構わないが……」 「構わんですとも私はいっこう構いません。しかしあの大頭が艶書をかいたと云うには、少し驚ろきますね」 「それがさ。冗談じょうだんにしたんだよ。あの娘がハイカラで生意気だから、からかってやろうって、三人が共同して……」 「三人が一本の手紙を金田の令嬢にやったんですか。ますます奇談ですね。一人前の西洋料理を三人で食うようなものじゃありませんか」 「ところが手分けがあるんだ。一人が文章をかく、一人が投函とうかんする、一人が名前を借す。で今來たのが名前を借した奴なんだがね。これが一番愚ぐだね。しかも金田の娘の顔も見た事がないって云うんだぜ。どうしてそんな無茶な事が出來たものだろう」 「そりゃ、近來の大出來ですよ。傑作ですね。どうもあの大頭が、女に文ふみをやるなんて面白いじゃありませんか」 「飛んだ間違にならあね」 「なになったって構やしません、相手が金田ですもの」 「だって君が貰うかも知れない人だぜ」 「貰うかも知れないから構わないんです。なあに、金田なんか、構やしません」 「君は構わなくっても……」 「なに金田だって構やしません、大丈夫です」 「それならそれでいいとして、當人があとになって、急に良心に責められて、恐ろしくなったものだから、大おおいに恐縮して僕のうちへ相談に來たんだ」 「へえ、それであんなに悄々しおしおとしているんですか、気の小さい子と見えますね。先生何とか云っておやんなすったんでしょう」 「本人は退校になるでしょうかって、それを一番心配しているのさ」 「何で退校になるんです」 「そんな悪るい、不道徳な事をしたから」 「何、不道徳と云うほどでもありませんやね。構やしません。金田じゃ名譽に思ってきっと吹聴ふいちょうしていますよ」 「まさか」 「とにかく可愛想かわいそうですよ。そんな事をするのがわるいとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが人相はそんなにわるくありません。鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです」 「君も大分だいぶ迷亭見たように呑気のんきな事を云うね」 「何、これが時代思潮です、先生はあまり昔むかし風ふうだから、何でもむずかしく解釈なさるんです」 「しかし愚ぐじゃないか、知りもしないところへ、いたずらに艶書えんしょを送るなんて、まるで常識をかいてるじゃないか」 「いたずらは、たいがい常識をかいていまさあ。救っておやんなさい。功徳くどくになりますよ。あの容子ようすじゃ華厳けごんの滝へ出掛けますよ」 「そうだな」 「そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧おおぞう共がそれどころじゃない、わるいいたずらをして知らん面かおをしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんな奴らを片かたっ端ぱしから放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ」 「それもそうだね」 「それでどうです上野へ虎の鳴き聲をききに行くのは」 「虎かい」 「ええ、聞きに行きましょう。実は二三日中にさんちうちにちょっと帰國しなければならない事が出來ましたから、當分どこへも御伴おともは出來ませんから、今日は是非いっしょに散歩をしようと思って來たんです」 「そうか帰るのかい、用事でもあるのかい」 「ええちょっと用事が出來たんです。――ともかくも出ようじゃありませんか」 「そう。それじゃ出ようか」 「さあ行きましょう。今日は私が晩餐ばんさんを奢おごりますから、――それから運動をして上野へ行くとちょうど好い刻限です」としきりに促うながすものだから、主人もその気になって、いっしょに出掛けて行った。あとでは細君と雪江さんが遠慮のない聲でげらげらけらけらからからと笑っていた。