日本文學(xué)作品欣賞 中井正一 過剰の意識(shí)
電影《ひらいて》(手寫信)中,西村たとえ被老師點(diǎn)起來讀的那篇課文的原文。
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僅作交流學(xué)習(xí)之用。
過剰の意識(shí)
中井正一
何年前であったか、親不知子不知のトンネルをでたころであった。前に座っていた胸を病んでいると思える青年が、突然
「ああ海はいい、海はいいなあ……」
といって、一直線にのびている黒い日本海の水平を、むさぼるように凝視しつついうのであった。そして前に座っている私をつかまえて、多くのことをいったが、
「単純な、靜かな、この一直線はどうです好いですなあ。私は東京から體を悪くして故郷の山奧の溫泉にいくんですが、東京にはこの単純な美しさがありません。男の子と女の子が、山の奧でただ愛しあうというような単純な美しさがありません?!工趣いΔ瑜Δ室馕钉韦长趣蚩冥肖浃摔い盲俊¥饯筏?、海を見ながら
「ああ海はいいですなあ。いいなあ。いいなあ」
と膝を軽くたたきながら、いくらいってもいいたりないようにいいつづけていた。
私はその後、リスキンとキャプラのコンビのものの基調(diào)に、かかる感じのもの「太平洋のまんなかの島に二人で住みたい」という底の戀人のセリフを見いだしたことがあったが、私が、このまる三年、東京に住みついて、このノスタルジャ、淡いユートピア気分がわかるような気がするのである。
朝の満員の省線電車の中にラグビーのごとく突入して、ひしめくおたがいの中にわきいでる無意味な憎しみ、肌と肌をこんなに密著しながら、顔と顔を、こんなに寄せあいながら、おたがいに理由なく、水のようにみなぎっている憎悪の中に沈みゆられているのである。
「おはよう」というかわりに、東京では數(shù)百萬の人がこの憎しみの中に浸され、「おやすみ」というかわりに、また數(shù)百萬の人がこの哀しみの中にもまれて、その一日を過ごすのである。歴史が始まって、こんなかたちの人間の集合があったであろうか。お祭にせよ、戦爭にせよ、もっと散らばり、もっとはっきりした感情の理由と自由をもっていた。
ただ過剰であることの理由で、こんなに憎みあっている人間の集合は、いずれの文化段階にも存在しなかったであろう。過剰の中に、さらに過剰たらんとして突っ込んでいく朝な朝な、夕な夕なの東京の人間集合、日本知識(shí)人の意識(shí)機(jī)構(gòu)「意識(shí)の過剰」の、一つの象徴であるかのようである。何か過剰なるもの、こころを、これくらいあらわしているものはないであろう。
私は一つの童話を思い起す。強(qiáng)い力の巨人があった。彼は大地に身を置いているかぎり、その力を失わない。彼は時(shí)に大地から身を離すと、その力を回復(fù)するために、その大なる掌を開き、そのたなごころを、しっかりと大地に著けるという。
私は力を回復(fù)するために、大地にじっと掌を置いている巨人の姿は美しいと思う。
私たちは常に口を開けば「現(xiàn)実」といっている。しかし、この現(xiàn)実について、私たちが何を知っているだろう。いわゆるサマツ主義といわれるトリビアルな眼前に見ている以外のほんとうの現(xiàn)実の何を知っているといえるだろう。私たちの肉體のどこの部分にでも何を知っているといえるだろう。足だとか手だとか、腹だとかいってみても、腹具合以上の感じ以外に何を知っているといえるだろう。ただ受身の何か、それが動(dòng)き行動(dòng)していることを肉體的に感じ見まもっているだけではないか。知っているといえるほどの何かを知っているだろうか。
足で立ち、手でものをもっている私たち自身を、自分たちは、はっきり知りつくしているだろうか。
私たちはただ受身で立ったり歩いたりしているだけである。知っているという以上、この手の骨格が、足の骨格から変わってきた何萬年かの百年ごとの変革ぐらい知っていてよいのである。だのに何も知らない。ただその長いプロセスの結(jié)論として、ステッキを握り、握りこぶしを握って、時(shí)には相手をなじっているのである。
しかし、知るという以上、人間が地上に立ったという、二十萬年の歴史、手が自由になった時(shí)の、その「自由」の感じを、まともに再び、継承し、意識(shí)し、受身でじゅうぶんに知らなくてはならない。
それからまた例えば、一人で獨(dú)白をしてみて言語を創(chuàng)出した人間の長い、そして初めての愉快だったにちがいない気分をも、受身で知ってみるべきであろう。
そして、それらのことから、宇宙に、石ころだろうが、木ぎれであろうが、秩序と法則をもっているらしいことを発見した人間の初めてのたどたどしい驚き。これも思いかえしてみるべきである。
宇宙に、何も知らない宇宙に、こんな存在がただ一つ、いくら小さくてもただ一つできたこと、人間ができたこと、このことを、この世紀(jì)でもやはり驚くべきである。
たとえ五千年の歴史が、どんな誤りを犯していても、この二十萬年の驚くべき現(xiàn)実に比べれば、四十日のすばらしい旅行の最後の一日に風(fēng)邪をひいているようなものである。ただ一日いくら鼻をたらしていても、人間が鼻をたらすものであることを悲観して首をくくるというわけにはいくまい。
二十萬年の勝利の跡が、今の、どの街のどんな隅にもころがっているのである。私たちの肉體のどの隅ににも。
噓だと思うなら、立ちあがって歩いてみろ、噓だと思うなら獨(dú)言いってみろ、その簡単な事実こそが、二十萬年の勝利のしるしである。
こんな単純な現(xiàn)実、これは遠(yuǎn)い水平線のような現(xiàn)実である。しかしどんな巨大な建造物も、どんな罪悪も、このホリゾントの上にしかできあがってはこないのである。
この地平を離れるとどんなものも、過剰の翳を帯びてくる。何か力を失ったものとならざるをえないのではないか。いくらそれが巨大なスケールであっても。
*『シナリオ』一九五一年七月號(hào)

底本:「中井正一全集 第三巻 現(xiàn)代蕓術(shù)の空間」美術(shù)出版社
1981(昭和56)年5月25日新裝第1刷
初出:「シナリオ」
1951(昭和26)年7月號(hào)
入力:鈴木厚司
校正:宮元淳一
2005年3月25日作成
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