9-1 平庸人生
9-1 平庸人生
この國はなぜ寂しいのかー「ものさし」を失った日本人
這個國家為什么孤獨——失去“尺度”的日本人
多くの人は、個性の持ち主にあこがれて、できれば、見習(xí)いたいものだと思いながら、実は一方で「人並み」であることをひそかに求めてもいる?!溉恕工橥猡欷皮い郡辍ⅳ欷皮い郡辘工毪长趣?、彼らを極度に不安にする?!竿浮顾激い虮Гい皮い郡长趣虬k見することは大きな安心を與えるはずであるから、「同じ」思いの通ずる仲間が見つかると、すぐにでも群れようとする。そういう人間の傾向は、別に日本人にだけ備わったものというわけでもなく、ほとんど本能的なものとして、多かれ少なかれ誰もが抱えている要素であると言ってよい。
很多人都向往有個性的人,如果可行的話,雖然想模仿,但實際上另一方面也在暗中尋求和大眾一樣的“普通”。偏離或落后于普通“人”會讓他們極度不安。因為發(fā)現(xiàn)抱有“相同”的想法應(yīng)該會給人很大的安心感,所以一旦找到有“相同”想法的伙伴,就會馬上聚集在一起。這種為人的傾向,并不是只有日本人才具備的,可以說幾乎作為本能的東西,或多或少都是每個人都有的特性。
にもかかわらず、凡庸さは、表向き、なぜこれほど忌み嫌われるのか。それは、おそらく、人間というものの大多數(shù)が凡庸な生を生きるほかなく、自分の未來もまたその限界の中にあることをうすうす知っているのだが、そのことをそう決め付けられることは、自分の生を希望のない確定的なイメージに塗り込めてしまうことであり、それは個としての価値を否定されてしまうことにつながると感じられるからである。
盡管如此,表面上的平庸,為什么如此令人討厭呢。這大概是因為,大多數(shù)人都只能活在平庸的生活中,自己的未來也在平凡的界限里,但若這樣片面斷定的話,就會把自己的生活定義在沒有希望的印象中,這是因為感覺到作為個體的價值被否定了。
生きる意欲が現(xiàn)にあるのに、お前の未來はこのとおり當(dāng)たり前のものでしかないと規(guī)定されることは、未來に向かうものとしてある「生の意味」の本質(zhì)的條件を根こそぎにしてしまう。自らが有限な存在であることを大筋ではわきまえつつ、しかもその範囲に未知の部分を必ずいくらかは殘しておく。そこに自らが個であることの確証をかろうじて求めようとするのだ。
明明有生存的欲望,你的未來卻被定為這樣理所當(dāng)然的東西,這會將面向未來的“生存的意義”的本質(zhì)條件連根拔起。雖然基本上知道自己的存在是有限的,但一定要在其范圍內(nèi)留下一些未知的部分。在那里勉強尋求自己是一個個體的確證。