【日本小5道德】24#營救小康斯
コースチャ坊やを救え(營救小康斯)
一九九〇年(平成二年)八月二十八日、三才になるコースチャ坊やとその父親を乗せた飛行機が、札幌の丘珠空港に到著しました。コースチャ坊やは、そのままヘリコプターで札幌醫(yī)大病院の集中治療室へ運ばれました。全身の八十パーセントに大火傷を負(fù)い、極めて危険な狀態(tài)でした。醫(yī)師団は全力をあげて治療に取り組み、三十日午後、第一回目の皮膚の移植手術(shù)を行いました。
(1990年(平成2年)8月28日,三歲的小康斯和他父親所乘坐的飛機抵達(dá)了札幌的丘珠機場。小康斯被直升飛機直接送往了札幌醫(yī)大醫(yī)院的重癥監(jiān)護室。他全身80%嚴(yán)重?zé)齻?,狀態(tài)極其危險。醫(yī)生團全力為他治療,30日午后,進行了第一次的皮膚移植手術(shù)。)
コースチャ坊やが大火傷を負(fù)ったのは、八月二十日のことでした。ソビエト連邦サハリン州ユジノサハリンスクの家で、熱湯を浴びてしまったのです。すぐに病院に運ばれて手當(dāng)てを受けたのですが、何日も重體の狀態(tài)が続き、このままではあと數(shù)十時間しか生きられないと言われました。
(小康斯嚴(yán)重?zé)齻窃?月20日。他在蘇聯(lián)聯(lián)邦薩哈林州的南薩哈林斯克的家中,淋到了熱水。雖然馬上送他去醫(yī)院治療了,但是他持續(xù)幾日病危的狀態(tài),再這樣下去的話只能活數(shù)十小時。)
このことを知ったサハリン州知事から、「火傷の子供を助けて欲しい?!工妊预σ李mが、北海道知事に來ました。二十七日午後二時過ぎのことでした。サハリン州には、これほどの大火傷を治療する病院がありません。遠(yuǎn)く離れたモスクワまで行かなくては、設(shè)備の整った病院はないのです。札幌ならユジノサハリンスクから、飛行機で一時間と少しで行けます。しかも、火傷の治療に関する日本の技術(shù)は、世界でも最高と言われています。
(得知此事的薩哈林州知事,向北海道知事請求道:“救救燒傷的孩子?!边@是27日午后兩點后的事。薩哈林州沒有治療如此嚴(yán)重?zé)齻尼t(yī)院。不去遙遠(yuǎn)的莫斯科,是因為沒有設(shè)備齊全的醫(yī)院。而從南薩哈林斯克到札幌,乘飛機只需一小時多一點。而且,日本關(guān)于治療燒傷的技術(shù)也是世界上最好的。)
一刻を爭うため、外務(wù)省などもすぐに、パスポート、ビザなしの入國を認(rèn)め、北海道庁も素早く準(zhǔn)備を整えました。こうして、二十八日午前三時四十分には、札幌醫(yī)大の醫(yī)師達(dá)を乗せた迎えの飛行機が、ユジノサハリンスクに向けて飛び立ったのでした。サハリン州知事から要請を受けて僅か十三時間後のことでした。
(外務(wù)省也爭分奪秒,馬上認(rèn)可了沒有護照和簽證的入境,北海道廳也快速地準(zhǔn)備。就這樣,在28日上午三點四十分,札幌醫(yī)大的醫(yī)生們所乘坐的迎接的飛機,飛往了南薩哈林斯克。從接到薩哈林州知事的請求,僅僅是十三小時后的事。)
三十九度を超える高熱や痛み、言葉の壁……、「生」に向かって戦うコースチャ坊やに、ソ連はもとより日本全國から勵ましの手紙や見舞金が相次いで寄せられました。「我が子のようで……。」とお金を寄付したお年寄り、「私の皮膚を移植して……?!工妊预ι辘烦訾颏筏咳摔猡い蓼筏俊¥蓼?、電話やメッセージ、花束、千羽ヅルなど、小さな體で大火傷と戦うコースチャ坊やへの支援の輪は、國の內(nèi)外に広がっていきました。
(小康斯與超過了39度的高燒與疼痛、語言的障礙……向生而斗。不必說蘇聯(lián),日本全國也相繼給他寄來了鼓勵的信和慰問金。有捐來錢的老年人說“如同我的孩子般……”也有人提出“請移植我的皮膚……”此外,還有人打來電話、發(fā)來信息、送來花束和千紙鶴等,用小小的身體同嚴(yán)重?zé)齻鞫窢幍男】邓故盏降闹г畯膰鴥?nèi)外擴大開了。)
はじめ、付き添いはお父さんのイーゴリさんだけでした。日本へ飛び立つ時に、同行出來るのは一人だけと決められたためです。そして、移植手術(shù)で皮膚を提供する時のことを考えると、お父さんの方がいいと言うことになったのです。しかし、コースチャ坊やの回復(fù)には、お母さんの看病が何よりも薬になるとの醫(yī)師団の判斷で、間もなくお母さんのタリーナさんも日本に來ることが認(rèn)められました。
(最初,看護的人只有父親伊戈爾。因為飛往日本的時候,只允許一人同行。并且,考慮到移植手術(shù)提供皮膚的時候,父親看護更好。但是,醫(yī)生團判斷小康斯的恢復(fù)所需的最佳良藥是母親的看護,所以馬上母親塔麗娜也被許可來到日本。)
九月九日の午前一時過ぎ、コースチャ坊やが待ちに待ったお母さんが病院に著きました。タリーナさんは、集中治療室に入るとすぐ、「コースチャ、いい子だね。頑張ったね?!工?、優(yōu)しく聲をかけて、キスをしてやりました。コースチャ坊やは、やっとにっこり笑うことが出來ました。
(9月9日上午一點后,小康斯期待許久的母親來到了醫(yī)院。塔麗娜一來到重癥監(jiān)護室,馬上溫柔地說道:“康斯,好孩子。你很努力呢?!辈⒂H吻了他。小康斯終于露出了微笑。)
それから両親の付きっきりでの看病が続きました。コースチャ坊やは、一か月の間に五回の皮膚移植手術(shù)を受け、生きるための大きな戦いを続けたのでした。
(之后父母片刻不離地看護著他。小康斯在一個月內(nèi)接受了五次皮膚移植手術(shù),持續(xù)求生的大挑戰(zhàn)。)
こうして、沢山の人々の努力の結(jié)果、ようやく危険な狀態(tài)を抜け出すことが出來ました。そして回復(fù)するにしたがい、「早くおうちに帰りたい?!埂鸽Oのおうちの子貓に會いたい?!工胜嗓取ⅳ坤坤颏长亭毪瑜Δ摔猡胜辘蓼筏?。
(就這樣,在眾多人的努力之下,他終于脫離了危險的狀態(tài)。隨著漸漸恢復(fù),他開始撒嬌道:“我想快點回家?!薄拔蚁胍姼舯诩业男∝垺!保?/span>
入院してからほぼ二か月、十月二十四日には、集中治療室から一般病室に移されました。この日、コースチャ坊やは、自分の足で立って見せるなど元気いっぱいで、お醫(yī)者さんや看護師さん達(dá)に祝福されて、「ピース?!工炔枘郡脷荬郡盲驻辘?、Vサインを送れるまでになりました。
(從入院以來大概兩個月,10月24日,他從重癥監(jiān)護室搬到了普通病房。這天,小康斯非常精神,能自己站起來了,被醫(yī)生護士們祝福的時候,他還非常淘氣地比了個V。)
そしてついに十一月二十三日、帰國の日がやって來ました。コースチャ坊やは、日本語で「さようなら。」と言いながら、何度も何度も手を振って、お婆ちゃんの待つユジノサハリンスクに、元気な姿で戻って行きました。
(然后終于到了11月23日,回國的日子來臨了。小康斯一邊用日語說著再見,一邊不停地?fù)]手,然后他健健康康地回到了奶奶所在的南薩哈林斯克。)
日本を去るに當(dāng)たって、父親のイーゴリさんは次のように語りました。
(在離開日本的時候,父親伊戈爾如下說道。)
「コースチャが日本で生まれ変わり、私達(dá)には二つの故郷が出來ました?!?/p>
(“康斯在日本重獲新生,我們有兩個故鄉(xiāng)了?!保?/span>
サハリン州知事からの依頼で始まった醫(yī)療協(xié)力は、國境を越えて、一つの尊い生命を救ったのです。
(從收到薩哈林州知事的請求開始的醫(yī)療協(xié)作,跨越了國境,拯救了一個寶貴的生命。)

