【試譯】現(xiàn)代とは?/何為現(xiàn)代?-坂口安吾
本日(2.17)は安吾忌です。

坂口安吾
盡管人們籠統(tǒng)地說否定傳統(tǒng),卻并不意味著不得不將傳統(tǒng)全部否定,而只是反省和否定在傳統(tǒng)的實質(zhì)已漸漸消亡之時,作為信仰的存在保持其虛妄的空想這一事實。有實質(zhì)內(nèi)容的東西并不需要否定,又及,不限于傳統(tǒng),凡是那些失去實質(zhì)卻保有虛妄的權(quán)威的東西,都必須被反省和否定。
所謂時代風尚,往往大概傾向于是與傳統(tǒng)同等般空洞的東西。這是由于支持它們流行的大多數(shù)人從未將真誠的反思作為日常良友。更糟的是,那些占據(jù)時代領(lǐng)軍地位的人物,記者、教授和作家,也不一定是真誠的思考者和反省者。
以我身邊為例,大多數(shù)人好像使用了魔法,在評論連讀都沒讀過的小說?!癤這樣的作家好無聊啊?!薄澳阕x過么?”“沒有,大家都這么說,我也這么覺得。”“《肉體之門》是一部荒誕的黃色電影。”“你看過嗎?”“沒有,因為是色情片的所以沒看。”我這樣寫,大家或許不免嗤嗤發(fā)笑,但確信正在笑的人們中實際上應(yīng)該多少會有使用這一奇怪論證法的朋友。
這樣的人不僅有普通讀者。批評家也是如此。就連文人中也不乏這樣的人。他們讀都不讀便堂而皇之地發(fā)表自己的一知半解。
當我們談?wù)摪蜖栐?、莫泊桑等人時,我們經(jīng)常從歷史的角度進行批評,通讀全部的作品,然后才能看到時代價值。然而,同樣的批評家對現(xiàn)代的作品卻只是讀過一兩篇短篇,就敢于給作者的全部作品下斷言。
雖然現(xiàn)代文學(xué)的貧困云云言論最近甚囂塵上,但這是因為說這樣的話的人自己已經(jīng)愚不可及了。
老人只要一開口,便會說過去是好的,過去的藝人真正有技藝,這是現(xiàn)在的藝人所看不到的。從數(shù)千年前,老人們掛在嘴邊的話便一定如此。這是因為他們被時代拋棄,他們的人生已經(jīng)走向終點。
所謂藝術(shù),其實際的運轉(zhuǎn)并不是魔法,而是生活。藝術(shù)的生命在于勞作中將滿心融入現(xiàn)實的喜怒哀樂,所以它的存在方式與其說是藝術(shù)不如說更像生活。
原本拉莫、巴赫、莫扎特的樂曲曾與日常生活中的舞蹈為伴。最初是生活化的,如今卻與生活脫離而成為典雅的儀式,人們常常把這份典雅認作藝術(shù)的本質(zhì),但換言之,這與老人的嘮叨無異。
現(xiàn)代的年輕人乘著狂躁的爵士旋律在糙酒的氤氳中癲狂,像是沸騰著翻滾著、即將要爆炸般,以自敘傳的形式感受那些并非藝術(shù)而是現(xiàn)實的色情,談著并不遠大的戀愛。
這種飽含著現(xiàn)代的躁狂的爵士樂的糟糕旋律,最終應(yīng)該會成為古典的一種。現(xiàn)代性本身并不總是完全典雅的。這是因為現(xiàn)代不是歷史,而是生活本身。生活本身有不能從對歷史的觀察整理中獲得的性質(zhì),只有不知會走向哪個地獄的荒原的周游經(jīng)歷,以及不知道自己是誰的愚者,換言之,生活是僅此一人的生活。
任何把歷史和現(xiàn)實混為一談,大談現(xiàn)代貧困的人,都不過是故紙堆里的古董老人,被時代拋棄的人,即所謂不知生活為何的愚者。
歷史的觀察法在現(xiàn)代并不通用。這是因為,雖然我們籠統(tǒng)地稱之為人類,即所謂的一般人,但和自己這個只能活五十年的人畢竟不同。人類永遠存在,但自己只存在于當下。正因生活與歷史的視角不同,有只依據(jù)現(xiàn)實的命運支撐的切實性,這里便具備了現(xiàn)代的特性。
若知道這一點,也就知道其實不存在所謂現(xiàn)代的貧困之語?,F(xiàn)代性既不是貧乏也不是豐富?,F(xiàn)代性始終是一種真實的生活,一種處于邊緣的東西。
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正如日本的傳統(tǒng)中以對偶像崇拜的虛假的信仰為主一樣,外國文學(xué)的本土轉(zhuǎn)化也伴隨著類似的偶像崇拜的信仰行為。
現(xiàn)如今的日本文壇上,提起司湯達,盡管無論如何總被認為是絕對好的,但我不禁覺得奇怪且無可奈何。例如,織田作之助稱自己是二流作家,而奉司湯達為一流作家,而顯然我也被列入二流作家之列,這很荒唐。
盡管我沒有想過自己是幾流作家,但我不覺得自己屈居司湯達之下。司湯達的作品中,人類是刻板的、陳詞濫調(diào)的、無聊的,我覺得很荒謬。相比之下,司湯達先前的《危險關(guān)系》則更有人情味,更簡潔,更新鮮。
我認為,對于生活著的人們來說,不愿讀司湯達的著作是很正常的。那些遠離生活的古董老人,如學(xué)者和隱士,都喜歡讀司湯達的著作,并把它們作為現(xiàn)代人的靈感來源,他們難道不也是古董的一部分嗎。

現(xiàn)代とは?
坂口安吾
伝統(tǒng)の否定と一口に言うけれども、伝統(tǒng)は全て否定しなければならぬというものではなくて、すでに実質(zhì)を失いながら虛妄の空位を保って信仰的な存在をつゞけていることが反省され否定されなければならぬというだけだ。実質(zhì)あるものは否定の要なく、又、伝統(tǒng)に限らず、全て、実質(zhì)を失いながら虛妄の権威を保つものは、反省され、否定される必要があるだけだ。
時代の流行というものは、常に多分に、伝統(tǒng)と同じぐらい空虛なものであり易い。それというのが流行を支える大多數(shù)の個人が決して誠実な省察を日常の友とはしていないからで、尚いけないことは、時代の指導(dǎo)的地位にある人々、ジャーナリスト、教授、執(zhí)筆者、必ずしも誠意ある思索家、內(nèi)省家ではない。
例を私の身辺にとっても、大多數(shù)の人々は読みもせぬ小説を批評しているから、魔法使いのようなものだ?!沥胜螭谱骷窑膜蓼椁螭扦工?。君よんだのかい。いゝえ、みんなそう言ってますよ、とくる。肉體の門て怪けしからんエロ芝居ですね。君見たのかい。いゝえ、エロだから見ないんです。私がこう書くと皆さんアハハと笑いだすかも知れないが、そういう方々の何割かが実は日常かゝる奇怪な論証法を友としておられる筈だ。
これが一般読者ばかりではないのである。批評家が、そうだ。文士にも、そういう方がある。そして読みもせぬ半可通を堂々と発表する。
バルザックとかモウパッサンとかいうと、常に歴史的に批評する。その全作品を読んで、時代的な意味を見る。ところが、同じ批評家が、現(xiàn)代に就ては、一ツ二ツの短篇を読んだだけで、作者全部のものをキメつけてかゝってくるから勇ましい。
現(xiàn)代文學(xué)の貧困、などゝ近頃のハヤリ言葉であるが、こういうことを言う人は、すでに御當人が阿呆なのである。
老人というものは、口を開けば、昔はよかった、昔の蕓人は蕓がたしかであった、今の蕓人は見られないと言う。何千年前から、老人は常にそう言うキマリのものなのだ。それは彼らが時代というものに取り殘されているからで、彼らの生活が、すでに終っているからだ。
蕓術(shù)というものは、その実際のハタラキは蕓という魔法的なものではなくて、生活でなければならぬ。それが現(xiàn)実の喜怒哀楽にまことのイノチをこめてはたらくところに蕓術(shù)の生命があるのであり、だから、その在り方は蕓術(shù)というよりも生活的なものだ。
昔はラモオだのバッハだのモオツァルトが日常生活の舞踏の友であった。元來は生活的なものだ。それが今日は生活を離れた典雅なものとなって、時に人々は、その典雅が蕓術(shù)の本質(zhì)だと思いがちだが、これが、つまり、老人のクリゴトと同じ性質(zhì)のものだ。
現(xiàn)代の若者たちは狂躁なジャズのリズムにのってカストリの濛気をフットウさせカンシャク玉がアバレルようなアンバイ式に一向に蕓術(shù)的ならぬ現(xiàn)実的エロを味い、甚だもって高遠ならざる戀をさゝやく。
この現(xiàn)代の狂躁のみをこめたようなジャズの悪音響も、やがては典雅となる筈である?,F(xiàn)代そのものは常にまったく典雅ではない?,F(xiàn)代は歴史ではなく、生活それ自體だからだ。生活自身は歴史的に観察整理され得ざるところに本領(lǐng)があり、どこの地獄へ流れつくのか見當のつかない曠野の遍歴と自らの何者たるかを知らないバカ者、つまり生活しつゝある人間一匹がいるのみなのである。
歴史と現(xiàn)実をゴッチャにして、現(xiàn)代の貧困などゝ言う奴は、つまり研究室の骨董的老人で、時代に取り殘された人、即ち自ら生活せざる愚人であるにすぎない。
歴史的な観察法は現(xiàn)代には通用しないものだ。なぜなら、人間と一口に言うが、いわゆる人間一般と、自分という五十年しか生きられない人間とは違う。人間は永遠に在るが、自分は今だけしかない。そこに現(xiàn)代というものゝ特性があり、生活というものが歴史的な観方と別に現(xiàn)実だけのイノチによって支えられているヌキサシならぬ切実性があるのである。
これを知れば、現(xiàn)代の貧困などゝいう言葉は在り得ない。現(xiàn)代は貧困でも豊富でもない?,F(xiàn)代は常にたゞ現(xiàn)実の生活であり、ギリギリの物なのである。
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日本の伝統(tǒng)が、主として偶像的虛妄の信仰であることゝ同様に、外國文學(xué)の公式的な移入にも、同様な偶像信仰がつきまとっているものだ。
近ごろの日本文壇では、スタンダールと云えば、何かもう、絶対のように考えられているが、私はおかしくて仕方がない。織田作之助など、自分を二流と云い、スタンダールを一流と云い、二流の中には僕も含まれているらしいが、バカバカしい話である。
私は自分を何流とも考えないが、スタンダールよりも下の作家だとは思っていない。スタンダールの作品は、人間が紋切型で、分りきっていて、退屈で、私はバカらしいと思う。スタンダール以前の「危険な関係」の方が、はるかに人間通であり、簡潔であり、新鮮である。
生活する人間にとっては、スタンダールの文章など、読めないのが當然だと私は思う。學(xué)究とか隠者とか、生活から距てられた骨董的老人が、愛読し、そして現(xiàn)代をのゝしるヨスガとする性質(zhì)の、それも亦骨董品の一つではないかと私は考えているのである。
底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新小説 第三巻第一號」
1948(昭和23)年1月1日発行
初出:「新小説 第三巻第一號」
1948(昭和23)年1月1日発行