前言
※版權(quán)說明:譯者本人僅對本書進行漢化翻譯,漢化內(nèi)容中的所有被譯話語,僅代表譯者本人的立場。原書一切版權(quán)均歸佐々木壽人所有。未經(jīng)授權(quán)允許,嚴禁轉(zhuǎn)載。

當時的我過著比現(xiàn)在更散漫的生活,在完全不知道今天是幾號現(xiàn)在是幾點的狀態(tài)下活著。不夸張地說,覺得熱的話是夏天,覺得冷就是冬天,過著天亮則早,天黑則晚的生活,沒錢就工作,有錢就玩樂。不,正因為玩的時候才有工作的充實感,所以自己也真的是不知道什么是什么地生活。
因為是那樣的狀態(tài),所以不清楚確切是幾年前,但結(jié)合各種情況計算一下,大概是在十幾年前我和壽人相遇的。
他是個單純的男人,生氣的時候就生氣,遇到有趣的事情就笑,疏遠世間的羈絆,似乎只有在勝負的世界里才能感受到“生”。在他的觀念中,沒有因為有錢或有社會地位,也沒有因為是老人或客人就覺得了不起。這也如實反映在他的工作態(tài)度上。
當時壽人在新宿歌舞伎町的麻將館工作,只要坐在桌子上,不管對方是不是客人,都可以按照自己的喜好打麻將。即使有輸?shù)靡凰康睦峡蛻?,也絕不姑息。倒不如說,趁那個人的軟弱,做些愚蠢的事,他倒是滿不在乎地做了。
他是那種只對自己的勝利感興趣的男人,店里的營業(yè)額什么的都是次要的、次要的。打牌的速度也快得驚人,但那并不是為了提高店里的游戲周轉(zhuǎn)率,只是“為了讓自己能打得更多”。
你可以那么任性地生活啊。
“我的人生是我的。”壽人若無其事地說,話雖如此。
無論在哪里,堅持自己看似輕松實則辛苦。我不知道壽人是抱著怎樣的想法度過了怎樣的人生,才會變成這么直接的人。
但是,我有時也會想,如果我能像他一樣,一直活得很好,應(yīng)該會很輕松吧。我也和他一樣,逃避塵世的羈絆而生活,但如果迫不得已,我就會裝出一副常人的樣子。與此相對,壽人不會改變自己,而是把自己的情況強加給對方。
即使在桌子上也是那樣。我思考、推理、應(yīng)對對方打牌的意思。我覺得那是麻將,而且我有不追上的話就無法登頂?shù)男拍睢?/p>
但是壽人正好相反。他總是自己先下手為強,試圖甩開對方,即使踩到后手也一樣,硬要從頭插進去插隊,想把自己的節(jié)奏卷進去。在比賽中,有時也會有什么都不考慮的情況就好了,我這樣想。
“你不是很崇拜我嗎?”
這是絕對沒有的,真的沒有。我不想學壽人打麻將,也知道他的打法不適合我的體質(zhì),更別說憧憬了。
在閱讀本書的各位讀者中,一定有人喜歡壽人,或者真的很憧憬壽人吧。我是和壽人完全相反的人,又是同行,所以無法產(chǎn)生共鳴,但有一點可以肯定——他麻將打得很好,在任何逆境中都不退縮,不示弱。
這就像是在問,他的大腦系統(tǒng)哪一部分是不是壞了?即使放銃輸?shù)煤軈柡?,即使拿出壽人棒(最近在?lián)盟職業(yè)選手之間這樣稱呼箱子下用的黑點棒)也會很爽快,就像在青蛙的臉上小便一樣不痛不癢。
即使讀了壽人的書,我的麻將觀也不可能改變,但我很想知道壽人為什么能如此坦然,所以我打算把這本書讀到最后。
各位讀者沒有必要迎合我的意見,請放心地享受壽人的世界。但是,如果大家被旁若無人的壽人麻將所影響,我和日本職業(yè)麻將聯(lián)盟將不負任何責任,請您諒解。
?
第32,33期王位 ?瀧澤和典
?
?
第32 · 33期王位 ?滝沢和典
當時の私は今よりもずっとだらしのない生活をしていて、今日が何日で今が何時なのかまったく分からない狀態(tài)で生きていた。大げさじゃなく、暑ければ夏で寒ければ冬。明るければ朝で暗ければ夜という生活だった。金がなければ働くし、あれば遊ぶ。いや、遊んでいる時こそ働いている充実感があったりしたので、自分でも本當に何が何やら分からない生活だった。
そんな狀態(tài)だったので、正確に何年前だったのかは不明であるが、諸々の事情をすりあわせて計算してみると、だいたいる年ぐらい前に私とヒサトは出會っている。
単純な男だった。腹が立てば怒るし、面白いことがあれば笑う。世間のしがらみを疎ましがり、勝負の世界にのみ「生」を感じているようだった。金や社會的地位があるからとか、年寄りや客だから偉いという価値観は彼にはなかった。それは勤務(wù)態(tài)度にも如実に表れていた。
當時ヒサトは新宿歌舞伎町の雀荘で働いていたが、卓に入れば、相手が客だろうが関係なく自分の好きなように麻雀を打つ。負けが込んでいる常連客がいても容赦はしない。むしろその人の弱気に付け込んで愚形りーチをかますぐらいのことは平気でやってのけた。
店の売り上げなど二の次三の次で、とにかく自分が勝つことにしか興味がないような男だった。打牌スピードもすさまじく早かったが、それは店のゲーム回転數(shù)を上げるためではなく、あくまでも「自分がたくさん打てるようにするため」であった。
あんた、とくそんな自分勝手に生きていられるね。
「俺の人生は俺のものだし」
ヒサトはしれっと言う。それはそうだけど。
どこでもかしこでも、自分を貫き通すのは楽なようでしんどい。ヒサトがどういう考えでどういう人生を送ってきたから、そういうストレートな人間になったのかは分からない。
だが、時々私も、彼のように常時エバって生きていければ楽だろうになあと思う。私も彼と同じで浮世のしがらみを避けて生きているのだが、私の場合、やむを得ずぶつかってしまったら、常人のフリをする。対してヒサトは自分を曲げず、相手に自分の都合を押し付けるのである。
卓上でもそうだ。
私は相手の打牌の意味を考え、推理し、対応する。それが麻雀だと思っているし、それをつきつめていかなければ、頂には立てないという信念を持っている。
だがヒサトは逆だ。
常に自分が先手を取り、相手を振り回そうとする。後手を踏んでも同じである。無理に頭から突っ込んでいって列に割り込み、自分のペースに巻き込もうとする。
試合中にも、時々、何も考えないでいーよなー。と思うことがある。
「お前、俺に憧れてるだろ」
それだけは決してない。本當にない。私はヒサトの麻雀を真似しようとは思わないし、範対に私の體質(zhì)に合わないと分かっている。ましてや憧れなんてもってのほかだ。
本書を手に取られた皆さんの中には、ヒサトが好きだったり、本當に憧れている人もいるだろう。私はヒサトと真逆な人間で、かつ同業(yè)者なので共感はできないのだが、これだけは言える。
彼は麻雀が強い。
どんな逆境でもイモを引かない。弱みを見せない。
頭のシステムの一部、壊れてませんか?と聞きたくなるぐらいに、放銃しても負けが込んでも、プットビになってヒサト棒(最近、連盟プロの間では箱下用の黒い點棒をこう呼んでいる)を出してもケロっとしている。カエルの面にしょんべん、なのである。
ヒサトの本を読んでも、私の麻雀観が変わることはありえないが、ヤッがなぜ、そこまで平然としていられるのかを知りたくはある。だから一応は本書を最後まで読んでやるつもりだ。
読者の皆さんは、私などの意見に合わせる必要はありません。心置きなくヒサトワールドを堪能していただきたい。
ただし、皆さんが傍若無人なヒサト麻雀に影響されてしまっても、私も日本プロ麻雀連盟も一切の責任を取りません。あしからずご了承ください。