契丹古伝発見(jiàn)の経緯
好像國(guó)內(nèi)沒(méi)人研究。我感覺(jué)不靠譜但也沒(méi)證據(jù)。
浜名寛祐氏は日露戦爭(zhēng)中、鴨緑江おうりょくこう兵站経理部長(zhǎng)として満州の奉天城外の「黃寺」に長(zhǎng)く滯在していたという。
その時(shí)同じ経理部所屬の軍人に漢文?中國(guó)語(yǔ)の堪能な學(xué)者でもある廣部精という人がいて、その人が浜名氏に ある巻物があるから試しにみてみないか、不思議な物だよと誘った。
というのも、中國(guó)語(yǔ)も堪能なためその寺の僧とも交流があった廣部精氏にある日その僧が一巻の巻物を示して、 どう頭をひねっても読めないこの古書は、もしかすると日韓諸族の古語(yǔ)でも混じっているのはないかと言うので、 廣部氏は受け取って読んでみたけれども読めなかったのだという。
そこで浜名寛祐氏も行って閲覧したがやはり読めなかった、ただ寫しておけば誰(shuí)か読める人もいるだろうと思って 廣部氏に寫本を依頼したが、僧は許さず、これは某陵のどこかの秘物であって、戦火をおそれて東方のどこかへ 移したのを、その付近もまた危ないというので、ひそかに保管を黃寺に託したものなのだという。
しかし數(shù)日後、廣部氏の世慣れたはからい(恐らく賄賂)によって、やっと寫し取ることができ、 一本は廣部氏に、もう一本は浜名氏に渡された(寫本の所在は不明)。
浜名氏はその寫本の巻物を長(zhǎng)年手付かずにしたままであったが、魏志を読んだことをきっかけに解読に取り組み、
2980字からなるこの文獻(xiàn)を解釈し、氏の著した『日韓正宗遡源』という本の後半部分に収録して 1926年に出版した。
氏によればその巻物には題名がないため、氏の上記著書においては「神しん頌しょう敘伝じょでん?」(略して頌しょう敘じょ)の名で呼ばれているが、 氏はこれを東族古伝、契丹古伝とも呼び、最後の呼び方がその後一番有名になった。
注?上に「読めない」とあることから、漢文ではないとの誤解が一部に広まっているが(原田実氏の著書など)、誤り である。基本は立派な漢文(ただしかなり難解なもの)で記されており、一部に東族固有語(yǔ)の固有名詞?用語(yǔ)や詩(shī)句が使用されているだけである (混じっているというのはそのような意味である。漢文?非漢文のちゃんぽん文體という意味ではない)。
どの部分が固有語(yǔ)なのかであるとか、漢文の部分も凝った文體でありすらすらとは読めない、 等々、読解に検討を要することから、僧にも十分読解できない部分があり、また、見(jiàn)せられた側(cè)も、僧に閲覧を許された短時(shí)間という 制約下では理解困難であったということだろう。