【翻譯】種命新藍光box 特典訪談(后藤篇)
注:本文也在高達吧發(fā)布
拿到新的藍光BOX之后就第一時間把特典拿出來翻了翻,發(fā)現(xiàn)里面有些值得發(fā)出來分享的東西
有最新的內(nèi)容,也有可能是老早的訪談

目錄
介紹 寄稿 後藤リウ?。ㄐ≌f作者,最近的劇場版也有參與)
seed destiny的軌跡 —雜志篇— (統(tǒng)計了seed destiny播放當時的雜志)
鈴村健一 &石田彰&保志總一朗 采訪
大河原邦男 采訪
機動戰(zhàn)士 設(shè)計相關(guān)集(介紹設(shè)計ms的一些想法)
福田己津央 采訪
結(jié)語
目前已經(jīng)翻譯完了后藤先生的部分
目前預(yù)定翻譯的內(nèi)容(包含發(fā)布順序)
是福田的采訪→鈴村等人的采訪
剩余因為我個人還有其他翻譯工作,可能就會單純掃圖發(fā)上來
發(fā)布形式是先發(fā)翻譯稿內(nèi)容,再發(fā)日文原稿(文字或者拍攝,掃圖)
如果有翻譯問題歡迎有識之士指出
發(fā)布原稿也是為了防止有人說我亂翻)如果有疑問到時候可以自行找高手來確認
正文部分
介紹
寄稿
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2002年冬天,我背著一個很大的背包,來到了日升本社。
為什么要帶個背包,是因為把之前送到我這來的資料和劇本都一股腦的塞了進去,沒什么力氣的我只能想到這么個辦法。
那時候咕嚕咕嚕轉(zhuǎn)的旅行箱還沒普及呢,如果有的話我肯定會選它了。
那次是有關(guān)《SEED》小說版,第一次的協(xié)商會議。
對不過是一名高達粉絲,身為剛剛出道的作家的我來說,這還是一件難以置信的事。曾經(jīng)默念著《機動戰(zhàn)士高達》里的臺詞,和朋友們一起玩扮演游戲時候那個傻乎乎的中學生自己,居然會有這么一天。
之后很快知道,這次“協(xié)商會議”只不過是碰面聚首而已,根本不用帶資料或者劇本,當然也用不上什么箱子。
如果知道的話,就會穿得更得體些了吧。因為和背包不太搭調(diào),在著裝上是放棄了。明明是值得紀念的頭次日升之旅,結(jié)果我居然就穿著件紅色毛衣和牛仔褲這種沒品位的著裝。
但是,直到現(xiàn)在也時常會回憶起背著個包來首都的自己。那個不了解業(yè)界(即使現(xiàn)在也不太了解),對小說改編的常識也不懂,僅僅一根筋認真努力的自己。
一想到中學生時期非常喜歡高達的自己,自然就會變得認真起來。
所以,在小說改編的時候,盡量注意做到對作中的臺詞不改一詞一句。要改動默記的臺詞,如果是我的話肯定會覺得反感吧。
關(guān)于機動戰(zhàn)士和機械的數(shù)據(jù)和設(shè)定說明,也盡量在作中放入了。
雖然參數(shù)書之類的會絕版,但是高達的小說會一直保存下來?,F(xiàn)在也能讀到《機動戰(zhàn)士高達》的小說。就這么如果10年,20年后有人在讀《SEED》的小說,這將成為那些人的數(shù)據(jù)參考
——不過嘛,到了現(xiàn)在這個時代,只要在網(wǎng)絡(luò)上搜索一下就很容易找到資料,所以那個時候的崇高志向也沒什么太大意義了。
說是如此,但當時也有不少麻煩事。
《SEED》里引用的科學技術(shù)有許多難懂的部分,要把那些自己都難以理解的東西解釋成易懂的內(nèi)容告訴讀者是件非常困難的事。
幸好我曾是個SF迷加宇宙開發(fā)迷,所以質(zhì)量加速器或是光壓推進,都算是比較快就理解了。
比較難懂的是《destiny》開頭的火紋驅(qū)動機。就是推動尤利烏斯7號落向地球的那個玩意。
簡單來說就是把尤利烏斯7號化作巨大的電磁石這么一回事……具體的請看小說。如果看小說也看不懂的話那就是我和我的腦袋太笨的原因,非常抱歉。
總之我靠自己那時候完全搞不懂原理,所以在協(xié)商會議(正式的會議)時請日升的負責人好好的求教了一下。當時我聽的很認真,眉頭都皺起像條峽谷一般,總算是理解到能寫進小說的程度,卻在動筆的時候就忘了一半。
讓人火大的是同行的編輯負責人說“后藤先生,已經(jīng)聽懂了吧?那這樣就行了”,擺出這么一副自己完全不打算去了解的態(tài)度。一起受難?。∥揖瓦@么暗地攥緊了拳頭。
沒辦法,他是那種提到光壓推進也大大方方說出“我的宇宙里光沒有什么壓力”的科學白癡。實在過于直白,讓人感覺十分坦蕩
如果將來有想要寫高達小說的人讀這些,就請好好聽我羅嗦幾句。趁現(xiàn)在好好的補習一下數(shù)理方面的基礎(chǔ)會比較好。
小說家周圍只有文科的人,編輯和校對也高幾率是高純度的文科生。關(guān)于科學知識,小說家只能依靠自己。非常遺憾。
現(xiàn)在也讓我心懷遺憾的是,在當時動筆的時候還沒有情報,到了放映后半的時候和前半出現(xiàn)了矛盾的地方,具體來說就是塔利亞艦長和迪蘭達爾議長的關(guān)系。
從小說來說就不得不描寫登場人物內(nèi)藏的一面,以及內(nèi)心活動。這就是小說的魅力所在,但是時常也會過于深入導致失敗。
簡單來說
誒誒誒?塔利亞和迪蘭達爾以前是戀人?這種事我不知道啊?。?!
就是這么一回事。
也許在《destiny》剛開始那會不僅是我,誰都沒法知道吧。也許是故事逐步推進時完善出來的設(shè)定也說不定。故事因為這些來推動也算是一種樂趣,對觀眾來說的話。
但是對寫小說的人來說就該抱頭了。
這就是和播放同一時期出版的小說版的可怕之處。如果在全部放映后稍稍沉浸在感慨里,回過頭來進行各種分析,再詳細的寫就好了,
……不,這么一來難度也會上升,也叫人為難。
某種意義上,我也是觀眾的一員。是觀眾里的專家。
特別是難以跟上《destiny》的情報,關(guān)于機動戰(zhàn)士的情報基本是參考月刊模玩日本的。畢竟就情報來說最為快捷最詳細,那段時間真是幫大忙了,模玩日本。
我真的就只是個觀眾而已。
總之,我也和大家是一樣的,每周“真好可愛”“史黛拉好可愛”“尼奧,把我的眼淚還回來!”“哎呀,阿斯蘭真是~!”這樣,每周在那垂頭頓足的。
我寫的東西說到底,只是后藤柳自己解釋的《SEED》,別的觀眾有自己各自的解釋是理所當然的事。
雖然想盡量忠實原作來小說化,但是只有一處,想在小說版里更改的部分。那就是最后基拉和迪蘭達爾對峙的場景。
在那個場面里,怎么都想要讓真也參與到里面去?!禿estiny》的小說版里,因為一直是把真當作主人公來寫的,所以感覺他不在那個場面里是非常違和的一件事。而雷也想最后讓他們見上一面。
但是,基拉進來, 然后阿斯蘭也進來了,如果最后再讓真登場,這就成了滑稽短劇一樣。連續(xù)三次是搞笑的基本。
正因如此,才和日升的負責人們一起竭盡腦汁,寫成了那種形式。通過通信機,和雷最后說上了幾句話的形式。
就我自己來說,這已經(jīng)算是努力過的價值了。
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聽說這個作品是受到2001年911事件的影響而創(chuàng)作出來的。
我自己也因為那次事件受到了強烈沖擊。因為身為作家,深夜一個人打開電視機,等于是剛好同一時刻目睹了貿(mào)易大廈崩塌的情景。
而這一時候,就在想我寫的這些虛構(gòu)作品到底有什么意義呢。
我在寫的東西,和打算寫的東西,總感覺它們逐漸變得稀薄起來。這些我至今為止一直感到樂趣喜愛,認為比什么都重要的東西。
就像311東日本大地震的時候,也有很多同樣感受的創(chuàng)作者在。
那時候的我也被煩惱和無力感所侵襲,和別的作家一起商量談心。
“別想太多了”
得到的是這樣一句話,可怎么樣都沒法不去思考。
就在這時候,我碰上了《SEED》的工作。
這份作品,讓我能發(fā)自內(nèi)心的思考,能夠去煩惱事物。所以我和登場人物們一起,思考,煩惱,尋求著答案。
戰(zhàn)斗到底是什么。敵人又是誰。人們?yōu)槭裁床辉阜艞墵幎纺亍?/p>
這里沒有明確的答案。
我也沒有找到答案。但即便如此,我也通過思考,通過撰寫,從某些東西里解脫出來了。
感覺自己又能腳踏實地站著了。
不如說,尋求明確的答案,本身就是一種錯誤也說不定呢,
在現(xiàn)在這個時代,人們?nèi)菀鬃呷霕O端。無視現(xiàn)實,主張那些偏激意見的人,不知為何反而受到歡迎。
不是黑就是白,這樣直接斬釘截鐵的說出來,確實會讓人感到爽快。
但是這世間充滿著多彩的顏色,不可能只靠一句話就全部總結(jié)完畢。希望靠言語謀生的人們,要學會自省。
只靠一種單純的法則,來說明世界的一切——要小心主張這種論調(diào)的人,這就是我想說的。
這個作品的《命運計劃》就是這么一回事吧。
遵從基因所帶來的適性,給每個人分配自己合適的職責,讓社會得以安定的計劃。
像我這樣野犬一樣的人,聽到這個恐怕就會呲牙咧嘴的反對吧。
但是說不定,對于活在此刻的現(xiàn)代人來說,也許是能被接納的計劃也說不定。
遵從《命運計劃》的話,就不必走彎路,能夠找到和自己最合適的工作。而這樣就能為社會作貢獻。就算想要抱怨也沒意義,哪怕為此痛苦,誰叫自己沒有好基因呢。
這算是最近常見的《自我責任論》的究極形式吧。
但是,對痛苦的人說“這是你自己不好”的論理,只不過是給執(zhí)政者的行為正當化的手段罷了。而這種論理,如果民眾自發(fā)的來擁護,那可能不會是什么好事。
現(xiàn)在世間正變得不太安定,不知道明天究竟會怎么樣。
撰寫劇場版的劇本時,也出現(xiàn)了很多難以預(yù)測的事態(tài)。
自《SEED》播放以來也過去了20余年,包裹世間的氣氛和狀況也大幅改變了。
(畢竟旅行箱和那時候比起來,已經(jīng)這般普及了)
(說起來背包也比那時候更加流行來著)
世間雖然變了,但是在這作品之中,仍有尚未過時,還有稱得上普遍的事物存在。還請享受這些,好好咀嚼,花上少許時間都行,好好的思考一下。
哪怕沒有得到答案也無妨。
我參與的劇場版,它的根據(jù)也是建立在非常普遍的主題上。
我發(fā)自內(nèi)心的期待,它能成為超越時代被喜愛的作品。
原文:
Introduction
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寄稿
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2002年冬、わたしは大きめのリュックサックを背負って、サンライズ本社を訪れた。
なぜリュックかと言うと、その中には送られてきた資料やシナリオがどっさり詰まっており、非力な私にはこれ以外の運搬方法は考えられなかったからだ。
あの頃コロコロ運べるキャリーバッグはまだ一般的でなかった。もしあったら絶対コロコロ一択だっただろう。
『SEED』小説版、初の打ち合わせだった。
一ガンダムファンにすぎない、駆け出しの作家である自分にとって、まったく信じられない展開?!簷C動戦士ガンダム』の臺詞をそらんじて、友人たちとごっこ遊びしてたような、アホな中學生だった自分が、まさか、こんな。
すぐ後に判明するのだが、この『打ち合わせ』はあくまで顔合わせ的なものにすぎず、資料もシナリオも必要なかった。もちろんコロコロも。
もし知っていたら、もっとおめかしして行ったのに。リュックに合わないからおしゃれ著は泣く泣くあきらめた。記念すべき初のサンライズ訪問だったのに、私ときたら赤いセーターにジーンズという冴えない服裝だった。
だが、いまも時折、このときリュックを背負って上京した自分を思い出す。業(yè)界のことも知らず(それは現(xiàn)在もよく知らない)、ノベライズのルーティンも知らず、ただただ真剣でバカ真面目だった自分。
ガンダムが大好きだった中學生の自分を思えば、真剣にも真面目にもなろうというもの。
だから、ノベライズにあたって、作中の臺詞はできるだけ、一言一句変えないように気をつけた。そらんじていた臺詞が変えられなんて、自分だったら嫌だろうと思ったから。
モビルスーツやメカのスペックや、設(shè)定説明なども、作中でできる限り入れた。
データブックの類いは絶版になってしまうけれど、ガンダムの小説はずっと殘る。いまも『機動戦士ガンダム』の小説は読めるのだ。十年後、二十年後にはじめてアニメ『SEED』を観る人がいるとしたら、その人たちのデータ補助になるように、と。
——まあ、今となってみると、ネットで検索すればデータはいくらでも出てくるので、このときの崇高な志はあまり意味がなかったのだが。
とはいえ、大変なことは結(jié)構(gòu)あった。
『SEED』に出てくる科學技術(shù)は難解なものが多く、自分でも理解しにくいものを読者にわかりやすく伝えるのはかなりハードルが高い。
幸い自分はSFファンで宇宙開発ファンだったので、マスドライバーとか光圧推進とかは、わりとすんなり理解できた。
難物だったのが、『DESTINY』冒頭のフレアモーター。ユニウスセブンを地球に落とそうとするアレだ。
要するにユニウスセブンを巨大な電磁石にしてしまうということなのだが…くわしくは小説をご參考いただきたい。小説を読んでもよくわからないとしたら私と私の頭が悪いですゴメンナサイ。
とにかく自力ではまったく原理が理解できなかったので、打ち合わせ(このときは本格的打ち合わせ)時にサンライズの擔當者さんに、しっかりレクチャーしていただいた。眉間に深々と峽谷ができるほど真剣に聞き、なんとか小説に書けるくらいに理解できたのだが、書いたとたん半分くらい忘れた。
頭に來たのは同行した擔當編集者さんが『後藤さん、理解できましたか?ではもういいです』とまったく自分では理解しようとしない態(tài)度だったこと。一緒に苦しめ!と、ひそかに拳を握りしめた。
しかたない。彼は光圧推進も『僕の宇宙では光に圧力なんてありません』と堂々と言い切っていた科學音癡。あまりに堂々としていて、むしろすがすがしささえ感じる。
もし、將來ガンダム小説を書きたいと志する方がこれを読んでいるとしたら、老婆心ながらご忠告したい。今のうちに理數(shù)の基礎(chǔ)をしっかり勉強しておいたほうがいいと。
小説家のまわりに文系の人しかいない。編集者も校正者も高確率で純度の高い文系だ??茖W知識において、小説家は自分だけが頼りなのだ。殘念ながら。
いまも心殘りなのが、書いた當時はまだ情報がなく、放映後半になって前半と矛盾が生じてしまったところだ。具體的にはタリア艦長とデュランダル議長の関係なのだが。
小説だと登場人物の內(nèi)面や心の動きを書かざるを得ない。それが小説の魅力になるのではあるが、たまに踏み込みすぎで失敗することがある。
端的に言えば、
えええー?タリアとデュランダルが昔、戀人どうしだったなんて知らなかったよー!!!
である。
もしかしたら『DESTINY』開始直後には私だけでなく誰も知らなかったのかもしれない。物語が進むうちに熟成していった設(shè)定なのかも。そうやって物語が動いていくのも楽しみのひとつだ。視聴者としては。
だが小説擔當としては頭を抱えた。
これが放映と並行して出版されてゆく小説版の怖いところ。放映後にしばし感慨に浸り、遡ってあれこれ分析してから、ゆっくり書けたらいいのに。
……いや、それはそれでハードルが上がって困るか。
ある意味、私は視聴者の一人。視聴者のプロフェッショナルだと思っている。
とくに『DESTINY』は情報が追いつかず、モビルスーツ情報は月刊ホビージャパンにほぼ頼っていた。一番情報が早くて詳細だからだ。その節(jié)はお世話になりました、ホビージャパンさん。
本當にただの視聴者じゃん。
というわけで、私もみなさんと同じように「シンかわいい」「ステラかわいい」「ネオ~、私の涙を返せ!」「も~!アスランは~!」などと、毎週じたばたしていた。
私の書いたものはあくまで、後藤リウが解釈した『SEED』であり、ほかの視聴者にはそれぞれの解釈があって當然だと思っている。
できるだけ原作に忠実にノベライズしたつもりだが、ひとつだけ、小説版では変えたいと思った箇所がある。最後のキラとデュランダルと対決シーンだ。
あの場面に、どうしてもシンも立ち會わせたかった?!篋ESTINY』小説版においては、ずっとシンを主人公として描いてきたので、あの場面に居ないのは不自然なような気がしたのだ。レイとも最後に合わせてあげたかったし。
でも、キラが來て、次にアスランが來て、最後にシンが登場したら、これはもうどうしてもコントになってしまう。三回に重ねるのはお笑いの基本だ。
というわけで、サンライズの擔當者さんたちと知恵を絞ったあげく、ああいう形になった。通信機ごしに、レイと最後の會話を交わす、という形だ。
自分としては、頑張っただけの価値はあったと思っている。
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この作品は2001年の9.11事件に影響を受けて作られたと聞いている。
私自身もあの事件に強く衝撃を受けた。作家という職業(yè)柄、深夜にひとりでTVにかじりつき、まさしくリアルタイムで貿(mào)易センタービルが崩れ落ちるさまを見ていた。
こんなとき、私の書いているようなフィクションに何の意味があるだろうと思った。
書いているもの、書こうとしているものすべてが、どうしようもなく薄っぺらく感じられた。それまで楽しく愛しくて何より重要であったものたちが。
3.11東日本大震災(zāi)のときも、同じように感じられたクリエイトさんたちがいたようだ。
そのときの私も悩み、無力感に襲われて、ほかの作家さんに相談したりした。
「あまり考えない方がいいよ」
とも言われたが、どうしても考えずにはいられなかった。
そんな時に、『SEED』の仕事と出會ったのだ。
この作品は、私が心ゆくまで考え、悩みことを許してくれた。だから私は登場人物たちと一緒に、考え、悩み、答えを求めた。
戦いとは何なのか。敵とは誰なのか。人はなぜ爭いをやめられないのか。
ここには明確な答えはない。
私も答えは見つけられなかった。それでも、考え抜くこと、書くことで、何かから抜けられた。
安定した地面にまた立つことができたような気がする。
むしろ明確な答えを提示することこそが、誤りなのではないだろうか。
いまの時代、人は極論に走りがちだ?,F(xiàn)実を無視した、偏った意見を喧伝する者が、なぜかもてはやされる。
白だ、黒だ、と言い切ることには、たしかに爽快感があるかもしれない。
だが世の中は多彩な色であふれている。それをひとつの言葉で言い盡くすことなどできない。言葉を扱う商売をしている者だけに、自戒をこめて思う。
ひとつの単純な法則で、世界すべてを説明できる——などと語る人間には気をつけろ、ということだ。
この作品における「デステニィープラン」がそれにあたるだろう。
遺伝子による適性に従い、人々に適した役割を與え、社會を安定させるという計畫。
私のような野良犬は、聞いたとたん牙をむいて反発してしまうような話だ。
だがもしかして、いまを生きる現(xiàn)代人には、案外受け入れられてしまうプランなのかもしれないと感じてしまう。
「デステニィープラン」に従えば、無駄な回り道などせずに、自分にいちばん合った仕事につける。そして社會の役に立てるのだ。文句を言ってもしかたない。それで苦しむことになっても、そもそも自分の遺伝子が悪いのだから。
最近よく見る「自己責任論」の究極の形といえよう。
だが、苦しむ者に「それはおまえが悪いからだ」という論理は、施政者の思惑を正當化する手段にすぎない。その論理を、民衆(zhòng)がみずから補強するのは、いかがなものかと思ってしまう。
いままた世の中が不安定になり、明日はどうなるのかわからない時代になっている。
劇場版のシナリオを書いていたときには、まったく予測できなかった事態(tài)が次々に起きている。
『SEED』放映から二十數(shù)年経って、世の中を覆う気分や狀況も大きく変わった。
(なにしろキャリーバッグがあの頃とくらべて、こんなに普及している)
(そういえばリュックサックもあの頃より流行っている)
世の中は変わったが、この作品の中には、いまも古びない、普遍的なものが存在していると思う。ぜひ楽しんで、そして咀嚼して、ほんの少しの時間でいいので考えていただきたい。
たとえ答えが出なくでも。
私が関わらせていただいた劇場版も、根拠にはとても普遍的なテーマがある。
ぜひ時代を超えて愛される作品となってほしいと、心より願う。
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后藤篇完結(jié)