【青空文庫(kù)】太宰治 斜陽(yáng)(五)
對(duì)應(yīng)時(shí)間軸:3:18:34~4:18:00

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五
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私は、ことしの夏、或る男のひとに、三つの手紙を差し上げたが、ご返事は無(wú)かった。どう考えても、私には、それより他(ほか)に生き方が無(wú)いと思われて、三つの手紙に、私のその胸のうちを書(shū)きしたため、岬(みさき)の尖端(せんたん)から怒濤(どとう)めがけて飛び下りる気持で、投函(とうかん)したのに、いくら待っても、ご返事が無(wú)かった。弟の直治に、それとなくそのひとの御様子を聞いても、そのひとは何の変るところもなく、毎晩お酒を飲み歩き、いよいよ不道徳の作品ばかり書(shū)いて、世間のおとなたちに、ひんしゅくせられ、憎まれているらしく、直治に出版業(yè)をはじめよ、などとすすめて、直治は大乗気(おおのりき)で、あのひとの他にも二、三、小説家のかたに顧問(wèn)になってもらい、資本を出してくれるひともあるとかどうとか、直治の話を聞いていると、私の戀しているひとの身のまわりの雰囲気(ふんいき)に、私の匂(にお)いがみじんも滲(し)み込んでいないらしく、私は恥ずかしいという思いよりも、この世の中というものが、私の考えている世の中とは、まるでちがった別な奇妙な生き物みたいな気がして來(lái)て、自分ひとりだけ置き去りにされ、呼んでも叫んでも、何の手応(てごた)えの無(wú)いたそがれの秋の曠野(こうや)に立たされているような、これまで味わった事のない悽愴(せいそう)の思いに襲われた。これが、失戀というものであろうか。曠野にこうして、ただ立ちつくしているうちに、日がとっぷり暮れて、夜露にこごえて死ぬより他は無(wú)いのだろうかと思えば、涙の出ない慟哭(どうこく)で、両肩と胸が烈(はげ)しく浪打(なみう)ち、息も出來(lái)ない気持になるのだ。
もうこの上は、何としても私が上京して、上原さんにお目にかかろう、私の帆は既に挙げられて、港の外に出てしまったのだもの、立ちつくしているわけにゆかない、行くところまで行かなければならない、とひそかに上京の心支度をはじめたとたんに、お母さまの御様子が、おかしくなったのである。
一夜、ひどいお咳(せき)が出て、お熱を計(jì)ってみたら、三十九度あった。
「きょう、寒かったからでしょう。あすになれば、なおります」
とお母さまは、咳(せ)き込みながら小聲でおっしゃったが、私には、どうも、ただのお咳ではないように思われて、あすはとにかく下の村のお醫(yī)者に來(lái)てもらおうと心にきめた。
翌(あく)る朝、お熱は三十七度にさがり、お咳もあまり出なくなっていたが、それでも私は、村の先生のところへ行って、お母さまが、この頃にわかにお弱りになったこと、ゆうべからまた熱が出て、お咳も、ただの風(fēng)邪のお咳と違うような気がすること等(など)を申し上げて、御診察をお願(yuàn)いした。
先生は、ではのちほど伺いましょう、これは到來(lái)物でございますが、とおっしゃって応接間の隅(すみ)の戸棚(とだな)から梨(なし)を三つ取り出して私に下さった。そうして、お晝すこし過(guò)ぎ、白絣(しろがすり)に夏羽織をお召しになって診察にいらした。れいの如く、ていねいに永い事、聴診や打診をなさって、それから私のほうに真正面に向き直り、
「御心配はございません。おくすりを、お飲みになれば、なおります」
とおっしゃる。
私は妙に可笑(おか)しく、笑いをこらえて、
「お注射は、いかがでしょうか」
とおたずねすると、まじめに、
「その必要は、ございませんでしょう。おかぜでございますから、しずかにしていらっしゃると、間もなくおかぜが抜けますでしょう」
とおっしゃった。
けれども、お母さまのお熱は、それから一週間経(た)っても下らなかった。咳はおさまったけれども、お熱のほうは、朝は七度七分くらいで、夕方になると九度になった。お醫(yī)者は、あの翌日から、おなかをこわしたとかで休んでいらして、私がおくすりを頂きに行って、お母さまのご容態(tài)の思わしくない事を看護(hù)婦さんに告げて、先生に伝えていただいても、普通のお風(fēng)邪で心配はありません、という御返事で、水薬と散薬をくださる。
直治は相変らずの東京出張で、もう十日あまり帰らない。私ひとりで、心細(xì)さのあまり和田の叔父さまへ、お母さまの御様子の変った事を葉書(shū)にしたためて知らせてやった。
発熱してかれこれ十日目に、村の先生が、やっと腹工合(はらぐあ)いがよろしくなりましたと言って、診察しにいらした。
先生は、お母さまのお胸を注意深そうな表情で打診なさりながら、
「わかりました、わかりました」
とお叫びになり、それから、また私のほうに真正面に向き直られて、
「お熱の原因が、わかりましてございます。左肺に浸潤(rùn)を起しています。でも、ご心配は要りません。お熱は、當(dāng)分つづくでしょうけれども、おしずかにしていらっしゃったら、ご心配はございません」
とおっしゃっる。
そうかしら? と思いながらも、溺(おぼ)れる者の藁(わら)にすがる気持もあって、村の先生のその診斷に、私は少しほっとしたところもあった。
お醫(yī)者がお帰りになってから、
「よかったわね、お母さま。ほんの少しの浸潤(rùn)なんて、たいていのひとにあるものよ。お?dú)莩证蛘煞颏摔证沥摔胜盲皮い丹à筏郡?、わけなくなおってしまいますわ。ことしの夏の季候不順がいけなかったのよ。夏はきらい。かず子は、夏の花も、きらい?/p>
お母さまはお眼をつぶりながらお笑いになり、
「夏の花の好きなひとは、夏に死ぬっていうから、私もことしの夏あたり死ぬのかと思っていたら、直治が帰って來(lái)たので、秋まで生きてしまった」
あんな直治でも、やはりお母さまの生きるたのみの柱になっているのか、と思ったら、つらかった。
「それでも、もう夏がすぎてしまったのですから、お母さまの危険期も峠を越したってわけなのね。お母さま、お庭の萩(はぎ)が咲いていますわ。それから、女郎花(おみなえし)、われもこう、桔梗(ききょう)、かるかや、芒(すすき)。お庭がすっかり秋のお庭になりましたわ。十月になったら、きっとお熱も下るでしょう」
私は、それを祈っていた。早くこの九月の、蒸暑い、謂(い)わば殘暑の季節(jié)が過(guò)ぎるといい。そうして、菊が咲いて、うららかな小春日和(びより)がつづくようになると、きっとお母さまのお熱も下ってお丈夫になり、私もあのひとと逢(あ)えるようになって、私の計(jì)畫(huà)も大輪の菊の花のように見(jiàn)事に咲き誇る事が出來(lái)るかも知れないのだ。ああ、早く十月になって、そうしてお母さまのお熱が下るとよい。
和田の叔父さまにお葉書(shū)を差し上げてから、一週間ばかりして、和田の叔父さまのお取計(jì)(とりはから)いで、以前侍醫(yī)などしていらした三宅(みやけ)さまの老先生が看護(hù)婦さんを連れて東京から御診察にいらして下さった。
老先生は私どもの亡くなったお父上とも御交際のあった方なので、お母さまは、たいへんお喜びの御様子だった。それに、老先生は昔からお行儀が悪く、言葉遣(づか)いもぞんざいで、それがまたお母さまのお?dú)荬苏伽筏皮い毪椁筏ⅳ饯稳栅嫌\察など、そっちのけで何かとお二人で打ち解けた世間話に興じていらっしゃった。私がお?jiǎng)偈证?、プリンをこしらえて、それをお座敷に持って行ったら、もうその間に御診察もおすみの様子で、老先生は聴診器をだらしなく頸飾(くびかざ)りみたいに肩にひっかけたまま、お座敷の廊下の籐椅子(とういす)に腰をかけ、
「僕などもね、屋臺(tái)にはいって、うどんの立食いでさ。うまいも、まずいもありゃしません」
と、のんきそうに世間話をつづけていらっしゃる。お母さまも、何気ない表情で天井(てんじょう)を見(jiàn)ながら、そのお話を聞いていらっしゃる。なんでも無(wú)かったんだ、と私は、ほっとした。
「いかがでございました? この村の先生は、胸の左のほうに浸潤(rùn)があるとかおっしゃっていましたけど?」
と私も急に元?dú)荬訾?、三宅さまにおたずねしたら、老先生は、事もなげに?/p>
「なに、大丈夫だ」
と軽くおっしゃる。
「まあ、よかったわね、お母さま」
と私は心から微笑して、お母さまに呼びかけ、
「大丈夫なんですって」
その時(shí)、三宅さまは籐椅子から、つと立ち上って支那間のほうへいらっしゃった。何か私に用事がありげに見(jiàn)えたので、私はそっとその後を追った。
老先生は支那間の壁掛の蔭(かげ)に行って立ちどまって、
「バリバリ音が聞えているぞ」
とおっしゃった。
「浸潤(rùn)では、ございませんの?」
「違う」
「気管支カタルでは?」
私は、もはや涙ぐんでおたずねした。
「違う」
結(jié)核(テーベ)! 私はそれだと思いたくなかった。肺炎や浸潤(rùn)や気管支カタルだったら、必ず私の力でなおしてあげる。けれども、結(jié)核だったら、ああ、もうだめかも知れない。私は足もとが、崩れて行くような思いをした。
「音、とても悪いの? バリバリ聞えてるの?」
心細(xì)さに、私はすすり泣きになった。
「右も左も全部だ」
「だって、お母さまは、まだお元?dú)荬胜韦?。ごはんだって、おいしいおいしいとおっしゃって、……?/p>
「仕方がない」
「うそだわ。ね、そんな事ないんでしょう? バタやお卵や、牛乳をたくさん召し上ったら、なおるんでしょう? おからだに抵抗力さえついたら、熱だって下るんでしょう?」
「うん、なんでも、たくさん食べる事だ」
「ね? そうでしょう? トマトも毎日、五つくらいは召し上っているのよ」
「うん、トマトはいい」
「じゃあ、大丈夫ね? なおるわね?」
「しかし、こんどの病気は命取りになるかも知れない。そのつもりでいたほうがいい」
人の力で、どうしても出來(lái)ない事が、この世の中にたくさんあるのだという絶望の壁の存在を、生れてはじめて知ったような気がした。
「二年? 三年?」
私は震えながら小聲でたずねた。
「わからない。とにかくもう、手のつけようが無(wú)い」
そうして、三宅さまは、その日は伊豆(いず)の長(zhǎng)岡溫泉に宿を予約していらっしゃるとかで、看護(hù)婦さんと一緒にお帰りになった。門(mén)の外までお見(jiàn)送りして、それから、夢(mèng)中で引返してお座敷のお母さまの枕(まくら)もとに坐(すわ)り、何事も無(wú)かったように笑いかけると、お母さまは、
「先生は、なんとおっしゃっていたの?」
とおたずねになった。
「熱さえ下ればいいんですって」
「胸のほうは?」
「たいした事もないらしいわ。ほら、いつかのご病気の時(shí)みたいなのよ、きっと。いまに涼しくなったら、どんどんお丈夫になりますわ」
私は自分の噓を信じようと思った。命取りなどというおそろしい言葉は、忘れようと思った。私には、このお母さまが、亡くなるという事は、それは私の肉體も共に消失してしまうような感じで、とても事実として考えられないことだった。これからは何も忘れて、このお母さまに、たくさんたくさんご馳走(ちそう)をこしらえて差し上げよう。おさかな。スウプ。罐詰(かんづめ)。レバ。肉汁。トマト。卵。牛乳。おすまし。お豆腐があればいいのに。お豆腐のお味噌汁(みそしる)。白い御飯。お餅(もち)。おいしそうなものは何でも、私の持物を皆売って、そうしてお母さまにご馳走してあげよう。
私は立って、支那間へ行った。そうして、支那間の寢椅子(ねいす)をお座敷の縁側(cè)ちかくに移して、お母さまのお顔が見(jiàn)えるように腰かけた。やすんでいらっしゃるお母さまのお顔は、ちっとも病人らしくなかった。眼は美しく澄んでいるし、お顔色も生き生きしていらっしゃる。毎朝、規(guī)則正しく起床なさって洗面所へいらして、それからお風(fēng)呂場(chǎng)の三畳でご自分で髪を結(jié)って、身じまいをきちんとなさって、それからお床に帰って、お床にお坐りのままお食事をすまし、それからお床に寢たり起きたり、午前中はずっと新聞やご本を読んでいらして、熱の出るのは午後だけである。
「ああ、お母さまは、お元?dú)荬胜韦馈¥盲?、大丈夫なのだ?/p>
と私は、心の中で三宅さまのご診斷を強(qiáng)く打ち消した。
十月になって、そうして菊の花の咲く頃になれば、など考えているうちに私は、うとうとと、うたた寢をはじめた?,F(xiàn)実には、私はいちども見(jiàn)た事の無(wú)い風(fēng)景なのに、それでも夢(mèng)では時(shí)々その風(fēng)景を見(jiàn)て、ああ、またここへ來(lái)たと思うなじみの森の中の湖のほとりに私は出た。私は、和服の青年と足音も無(wú)く一緒に歩いていた。風(fēng)景全體が、みどり色の霧のかかっているような感じであった。そうして、湖の底に白いきゃしゃな橋が沈んでいた。
「ああ、橋が沈んでいる。きょうは、どこへも行けない。ここのホテルでやすみましょう。たしか、空(あ)いた部屋があった筈(はず)だ」
湖のほとりに、石のホテルがあった。そのホテルの石は、みどり色の霧でしっとり濡(ぬ)れていた。石の門(mén)の上に、金文字(きんもじ)でほそく、HOTEL SWITZERLAND と彫り込まれていた。SWI と読んでいるうちに、不意に、お母さまの事を思い出した。お母さまは、どうなさるのだろう。お母さまも、このホテルへいらっしゃるのかしら? と不審になった。そうして、青年と一緒に石の門(mén)をくぐり、前庭へはいった。霧の庭に、アジサイに似た赤い大きい花が燃えるように咲いていた。子供の頃、お蒲団(ふとん)の模様に、真赤(まっか)なアジサイの花が散らされてあるのを見(jiàn)て、へんに悲しかったが、やっぱり赤いアジサイの花って本當(dāng)にあるものなんだと思った。
「寒くない?」
「ええ、少し。霧でお耳が濡れて、お耳の裏が冷たい」
と言って笑いながら、
「お母さまは、どうなさるのかしら」
とたずねた。
すると、青年は、とても悲しく慈愛(ài)深く微笑(ほほえ)んで、
「あのお方は、お墓の下です」
と答えた。
「あ」
と私は小さく叫んだ。そうだったのだ。お母さまは、もういらっしゃらなかったのだ。お母さまのお葬(とむら)いも、とっくに済ましていたのじゃないか。ああ、お母さまは、もうお亡くなりになったのだと意識(shí)したら、言い知れぬ凄(さび)しさに身震いして、眼がさめた。
ヴェランダは、すでに黃昏(たそがれ)だった。雨が降っていた。みどり色のさびしさは、夢(mèng)のまま、あたり一面にただよっていた。
「お母さま」
と私は呼んだ。
靜かなお聲で、
「何してるの?」
というご返事があった。
私はうれしさに飛び上って、お座敷へ行き、
「いまね、私、眠っていたのよ」
「そう。何をしているのかしら、と思っていたの。永いおひる寢ね」
と面白そうにお笑いになった。
私はお母さまのこうして優(yōu)雅に息づいて生きていらっしゃる事が、あまりうれしくて、ありがたくて、涙ぐんでしまった。
「御夕飯のお獻(xiàn)立は? ご希望がございます?」
私は、少しはしゃいだ口調(diào)でそう言った。
「いいの。なんにも要らない。きょうは、九度五分にあがったの」
にわかに私は、ぺしゃんこにしょげた。そうして、途方にくれて薄暗い部屋の中をぼんやり見(jiàn)廻し、ふと、死にたくなった。
「どうしたんでしょう。九度五分なんて」
「なんでもないの。ただ、熱の出る前が、いやなのよ。頭がちょっと痛くなって、寒気(さむけ)がして、それから熱が出るの」
外は、もう、暗くなっていて、雨はやんだようだが、風(fēng)が吹き出していた。燈をつけて、食堂へ行こうとすると、お母さまが、
「まぶしいから、つけないで」
とおっしゃった。
「暗いところで、じっと寢ていらっしゃるの、おいやでしょう」
と立ったまま、おたずねすると、
「眼をつぶって寢ているのだから、同じことよ。ちっとも、さびしくない。かえって、まぶしいのが、いやなの。これから、ずっと、お座敷の燈はつけないでね」
とおっしゃった。
私には、それもまた不吉な感じで、黙ってお座敷の燈を消して、隣りの間へ行き、隣りの間のスタンドに燈をつけ、たまらなく侘(わ)びしくなって、いそいで食堂へ行き、罐詰の鮭(さけ)を冷たいごはんにのせて食べたら、ぽろぽろと涙が出た。
風(fēng)は夜になっていよいよ強(qiáng)く吹き、九時(shí)頃から雨もまじり、本當(dāng)の嵐(あらし)になった。二、三日前に巻き上げた縁先の簾(すだれ)が、ばたんばたんと音をたてて、私はお座敷の隣りの間で、ローザルクセンブルグの「経済學(xué)入門(mén)」を奇妙な興奮を覚えながら読んでいた。これは私が、こないだお二階の直治の部屋から持って來(lái)たものだが、その時(shí)、これと一緒に、レニン選集、それからカウツキイの「社會(huì)革命」なども無(wú)斷で拝借して來(lái)て、隣りの間の私の機(jī)の上にのせて置いたら、お母さまが、朝お顔を洗いにいらした帰りに、私の機(jī)の傍(そば)を通り、ふとその三冊(cè)の本に目をとどめ、いちいちお手にとって、眺(なが)めて、それから小さい溜息(ためいき)をついて、そっとまた機(jī)の上に置き、淋しいお顔で私のほうをちらと見(jiàn)た。けれども、その眼つきは、深い悲しみに満ちていながら、決して拒否や嫌悪(けんお)のそれではなかった。お母さまのお読みになる本は、ユーゴー、デゥマ父子、ミュッセ、ドオデエなどであるが、私はそのような甘美な物語(yǔ)の本にだって、革命のにおいがあるのを知っている。お母さまのように、天性の教養(yǎng)、という言葉もへんだが、そんなものをお持ちのお方は、案外なんでもなく、當(dāng)然の事として革命を迎える事が出來(lái)るのかも知れない。私だって、こうして、ローザルクセンブルグの本など読んで、自分がキザったらしく思われる事もないではないが、けれどもまた、やはり私は私なりに深い興味を覚えるのだ。ここに書(shū)かれてあるのは、経済學(xué)という事になっているのだが、経済學(xué)として読むと、まことにつまらない。実に単純でわかり切った事ばかりだ。いや、或(ある)いは、私には経済學(xué)というものがまったく理解できないのかも知れない。とにかく、私には、すこしも面白くない。人間というものは、ケチなもので、そうして、永遠(yuǎn)にケチなものだという前提が無(wú)いと全く成り立たない學(xué)問(wèn)で、ケチでない人にとっては、分配の問(wèn)題でも何でも、まるで興味の無(wú)い事だ。それでも私はこの本を読み、べつなところで、奇妙な興奮を覚えるのだ。それは、この本の著者が、何の躊躇(ちゅうちょ)も無(wú)く、片端から舊來(lái)の思想を破壊して行くがむしゃらな勇気である。どのように道徳に反しても、戀するひとのところへ涼しくさっさと走り寄る人妻の姿さえ思い浮ぶ。破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。破壊して、建て直して、完成しようという夢(mèng)。そうして、いったん破壊すれば、永遠(yuǎn)に完成の日が來(lái)ないかも知れぬのに、それでも、したう戀ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命を起さなければならぬのだ。ローザはマルキシズムに、悲しくひたむきの戀をしている。
あれは、十二年前の冬だった。
「あなたは、更級(jí)(さらしな)日記の少女なのね。もう、何を言っても仕方が無(wú)い」
そう言って、私から離れて行ったお友達(dá)。あのお友達(dá)に、あの時(shí)、私はレニンの本を読まないで返したのだ。
「読んだ?」
「ごめんね。読まなかったの」
ニコライ堂の見(jiàn)える橋の上だった。
「なぜ? どうして?」
そのお友達(dá)は、私よりさらに一寸くらい背(せい)が高くて、語(yǔ)學(xué)がとてもよく出來(lái)て、赤いベレー帽がよく似合って、お顔もジョコンダみたいだという評(píng)判の、美しいひとだった。
「表紙の色が、いやだったの」
「へんなひと。そうじゃないんでしょう? 本當(dāng)は、私をこわくなったのでしょう?」
「こわかないわ。私、表紙の色が、たまらなかったの」
「そう」
と淋しそうに言い、それから、私を更級(jí)日記だと言い、そうして、何を言っても仕方がない、ときめてしまった。
私たちは、しばらく黙って、冬の川を見(jiàn)下(みおろ)していた。
「ご無(wú)事で。もし、これが永遠(yuǎn)の別れなら、永遠(yuǎn)に、ご無(wú)事で。バイロン」
と言い、それから、そのバイロンの詩(shī)句を原文で口早に誦(しょう)して、私のからだを軽く抱いた。
私は恥ずかしく、
「ごめんなさいね」
と小聲でわびて、お茶の水駅のほうに歩いて、振り向いてみると、そのお友達(dá)は、やはり橋の上に立ったまま、動(dòng)かないで、じっと私を見(jiàn)つめていた。
それっきり、そのお友達(dá)と逢わない。同じ外人教師の家へかよっていたのだけれども、學(xué)校がちがっていたのである。
あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更級(jí)日記から一歩も進(jìn)んでいなかった。いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。革命を、あこがれた事も無(wú)かったし、戀さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と戀の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦爭(zhēng)の前も、戦爭(zhēng)中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本當(dāng)の生きる道があるような気がして來(lái)て、革命も戀も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄(ぶどう)だと噓(うそ)ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は戀と革命のために生れて來(lái)たのだ。
すっと襖(ふすま)があいて、お母さまが笑いながら顔をお出しになって、
「まだ起きていらっしゃる。眠くないの?」
とおっしゃった。
機(jī)の上の時(shí)計(jì)を見(jiàn)たら、十二時(shí)だった。
「ええ、ちっとも眠くないの。社會(huì)主義のご本を読んでいたら、興奮しちゃいましたわ」
「そう。お酒ないの? そんな時(shí)には、お酒を飲んでやすむと、よく眠れるんですけどね」
とからかうような口調(diào)でおっしゃったが、その態(tài)度には、どこやらデカダンと紙一重のなまめかしさがあった。
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やがて十月になったが、からりとした秋晴れの空にはならず、梅雨時(shí)(つゆどき)のような、じめじめして蒸し暑い日が続いた。そうして、お母さまのお熱は、やはり毎日夕方になると、三十八度と九度のあいだを上下した。
そうして或る朝、おそろしいものを私は見(jiàn)た。お母さまのお手が、むくんでいるのだ。朝ごはんが一ばんおいしいと言っていらしたお母さまも、このごろは、お床に坐って、ほんの少し、おかゆを軽く一碗(わん)、おかずも匂(にお)いの強(qiáng)いものは駄目(だめ)で、その日は、松茸(まつたけ)のお清汁(すまし)をさし上げたのに、やっぱり、松茸の香さえおいやになっていらっしゃる様子で、お椀(わん)をお口元まで持って行って、それきりまたそっとお膳(ぜん)の上におかえしになって、その時(shí)、私は、お母さまの手を見(jiàn)て、びっくりした。右の手がふくらんで、まあるくなっていたのだ。
「お母さま! 手、なんともないの?」
お顔さえ少し蒼(あお)く、むくんでいるように見(jiàn)えた。
「なんでもないの。これくらい、なんでもないの」
「いつから、腫(は)れたの?」
お母さまは、まぶしそうなお顔をなさって、黙っていらした。私は、聲を挙げて泣きたくなった。こんな手は、お母さまの手じゃない。よそのおばさんの手だ。私のお母さまのお手は、もっとほそくて小さいお手だ。私のよく知っている手。優(yōu)しい手。可愛(ài)い手。あの手は、永遠(yuǎn)に、消えてしまったのだろうか。左の手は、まだそんなに腫れていなかったけれども、とにかく傷(いた)ましく、見(jiàn)ている事が出來(lái)なくて、私は眼をそらし、床の間の花籠(はなかご)をにらんでいた。
涙が出そうで、たまらなくなって、つと立って食堂へ行ったら、直治がひとりで、半熟卵をたべていた。たまに伊豆のこの家にいる事があっても、夜はきまってお咲さんのところへ行って焼酎(しょうちゅう)を飲み、朝は不機(jī)嫌な顔で、ごはんは食べずに半熟の卵を四つか五つ食べるだけで、それからまた二階へ行って、寢たり起きたりなのである。
「お母さまの手が腫れて」
と直治に話しかけ、うつむいた。言葉をつづける事が出來(lái)ず、私は、うつむいたまま、肩で泣いた。
直治は黙っていた。
私は顔を挙げて、
「もう、だめなの。あなた、気が附(つ)かなかった? あんなに腫れたら、もう、駄目なの」
と、テーブルの端を摑(つか)んで言った。
直治も、暗い顔になって、
「近いぞ、そりゃ。ちぇっ、つまらねえ事になりやがった」
「私、もう一度、なおしたいの。どうかして、なおしたいの」
と右手で左手をしぼりながら言ったら、突然、直治が、めそめそと泣き出して、
「なんにも、いい事が無(wú)(ね)えじゃねえか。僕たちには、なんにもいい事が無(wú)えじゃねえか」
と言いながら、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)にこぶしで眼をこすった。
その日、直治は、和田の叔父さまにお母さまの容態(tài)を報(bào)告し、今後の事の指図(さしず)を受けに上京し、私はお母さまのお傍(そば)にいない間、朝から晩まで、ほとんど泣いていた。朝霧の中を牛乳をとりに行く時(shí)も、鏡に向って髪を撫(な)でつけながらも、口紅を塗りながらも、いつも私は泣いていた。お母さまと過(guò)した仕合せの日の、あの事この事が、絵のように浮んで來(lái)て、いくらでも泣けて仕様が無(wú)かった。夕方、暗くなってから、支那間のヴェランダへ出て、永いことすすり泣いた。秋の空に星が光っていて、足許(あしもと)に、よその貓(ねこ)がうずくまって、動(dòng)かなかった。
翌日、手の腫れは、昨日よりも、また一そうひどくなっていた。お食事は、何も召し上らなかった。お蜜柑(みかん)のジュースも、口が荒れて、しみて、飲めないとおっしゃった。
「お母さま、また、直治のあのマスクを、なさったら?」
と笑いながら言うつもりであったが、言っているうちに、つらくなって、わっと聲を挙げて泣いてしまった。
「毎日いそがしくて、疲れるでしょう??醋o(hù)婦さんを、やとって頂戴(ちょうだい)」
と靜かにおっしゃったが、ご自分のおからだよりも、かず子の身を心配していらっしゃる事がよくわかって、なおの事かなしく、立って、走って、お風(fēng)呂場(chǎng)の三畳に行って、思いのたけ泣いた。
お晝すこし過(guò)ぎ、直治が三宅さまの老先生と、それから看護(hù)婦さん二人を、お連れして來(lái)た。
いつも冗談ばかりおっしゃる老先生も、その時(shí)は、お怒りになっていらっしゃるような素振りで、どしどし病室へはいって來(lái)られて、すぐにご診察を、おはじめになった。そうして、誰(shuí)に言うともなく、
「お弱りになりましたね」
と一こと低くおっしゃって、カンフルを注射して下さった。
「先生のお宿は?」
とお母さまは、うわ言のようにおっしゃる。
「また長(zhǎng)岡です。予約してありますから、ご心配無(wú)用。このご病人は、ひとの事など心配なさらず、もっとわがままに、召し上りたいものは何でも、たくさん召し上るようにしなければいけませんね。栄養(yǎng)をとったら、よくなります。明日また、まいります??醋o(hù)婦をひとり置いて行きますから、使ってみて下さい」
と老先生は、病床のお母さまに向って大きな聲で言い、それから直治に眼くばせして立ち上った。
直治ひとり、先生とお供の看護(hù)婦さんを送って行って、やがて帰って來(lái)た直治の顔を見(jiàn)ると、それは泣きたいのを怺(こら)えている顔だった。
私たちは、そっと病室から出て、食堂へ行った。
「だめなの? そうでしょう?」
「つまらねえ」
と直治は口をゆがめて笑って、
「衰弱が、ばかに急激にやって來(lái)たらしいんだ。今(こん)、明日(みょうにち)も、わからねえと言っていやがった」
と言っているうちに直治の眼から涙があふれて出た。
「ほうぼうへ、電報(bào)を打たなくてもいいかしら」
私はかえって、しんと落ちついて言った。
「それは、叔父さんにも相談したが、叔父さんは、いまはそんな人集めの出來(lái)る時(shí)代では無(wú)いと言っていた。來(lái)ていただいても、こんな狹い家では、かえって失禮だし、この近くには、ろくな宿もないし、長(zhǎng)岡の溫泉にだって、二部屋も三部屋も予約は出來(lái)ない、つまり、僕たちはもう貧乏で、そんなお偉(え)らがたを呼び寄せる力が無(wú)えってわけなんだ。叔父さんは、すぐあとで來(lái)る筈だが、でも、あいつは、昔からケチで、頼みにも何もなりゃしねえ。ゆうべだってもう、ママの病気はそっちのけで、僕にさんざんのお説教だ。ケチなやつからお説教されて、眼がさめたなんて者は、古今東西にわたって一人もあった例(ためし)が無(wú)えんだ。姉と弟でも、ママとあいつとではまるで、雲(yún)泥(うんでい)のちがいなんだからなあ、いやになるよ」
「でも、私はとにかく、あなたは、これから叔父さまにたよらなければ、……」
「まっぴらだ。いっそ乞食(こじき)になったほうがいい。姉さんこそ、これから、叔父さんによろしくおすがり申し上げるさ」
「私には、……」
涙が出た。
「私には、行くところがあるの」
「縁談? きまってるの?」
「いいえ」
「自活か? はたらく婦人。よせ、よせ」
「自活でもないの。私ね、革命家になるの」
「へえ?」
直治は、へんな顔をして私を見(jiàn)た。
その時(shí)、三宅先生の連れていらした附添いの看護(hù)婦さんが、私を呼びに來(lái)た。
「奧さまが、何かご用のようでございます」
いそいで病室に行って、お蒲団(ふとん)の傍に坐り、
「何?」
と顔を寄せてたずねた。
けれども、お母さまは、何か言いたげにして、黙っていらっしゃる。
「お水?」
とたずねた。
幽(かす)かに首を振る。お水でも無(wú)いらしかった。
しばらくして、小さいお聲で、
「夢(mèng)を見(jiàn)たの」
とおっしゃった。
「そう? どんな夢(mèng)?」
「蛇(へび)の夢(mèng)」
私は、ぎょっとした。
「お縁側(cè)の沓脫石(くつぬぎいし)の上に、赤い縞(しま)のある女の蛇が、いるでしょう。見(jiàn)てごらん」
私はからだの寒くなるような気持で、つと立ってお縁側(cè)に出て、ガラス戸越しに、見(jiàn)ると、沓脫石の上に蛇が、秋の陽(yáng)(ひ)を浴びて長(zhǎng)くのびていた。私は、くらくらと目まいした。
私はお前を知っている。お前はあの時(shí)から見(jiàn)ると、すこし大きくなって老(ふ)けているけど、でも、私のために卵を焼かれたあの女蛇なのね。お前の復(fù)讐(ふくしゅう)は、もう私よく思い知ったから、あちらへお行き。さっさと、向うへ行ってお呉(く)れ。
と心の中で念じて、その蛇を見(jiàn)つめていたが、いっかな蛇は、動(dòng)こうとしなかった。私はなぜだか、看護(hù)婦さんに、その蛇を見(jiàn)られたくなかった。トンと強(qiáng)く足踏みして、
「いませんわ、お母さま。夢(mèng)なんて、あてになりませんわよ」
とわざと必要以上の大聲で言って、ちらと沓脫石のほうを見(jiàn)ると、蛇は、やっと、からだを動(dòng)かし、だらだらと石から垂れ落ちて行った。
もうだめだ。だめなのだと、その蛇を見(jiàn)て、あきらめが、はじめて私の心の底に湧(わ)いて出た。お父上のお亡くなりになる時(shí)にも、枕もとに黒い小さい蛇がいたというし、またあの時(shí)に、お庭の木という木に蛇がからみついていたのを、私は見(jiàn)た。
お母さまはお床の上に起き直るお元?dú)荬猡胜胜盲郡瑜Δ?、いつもうつらうつらしていらして、もうおからだをすっかり附添いの看護(hù)婦さんにまかせて、そうして、お食事は、もうほとんど喉(のど)をとおらない様子であった。蛇を見(jiàn)てから、私は、悲しみの底を突き抜けた心の平安、とでも言ったらいいのかしら、そのような幸福感にも似た心のゆとりが出て來(lái)て、もうこの上は、出來(lái)るだけ、ただお母さまのお傍にいようと思った。
そうしてその翌(あく)る日から、お母さまの枕元にぴったり寄り添って坐って編物などをした。私は、編物でもお針でも、人よりずっと早いけれども、しかし、下手だった。それで、いつもお母さまは、その下手なところを、いちいち手を取って教えて下さったものである。その日も私は、別に編みたい気持も無(wú)かったのだが、お母さまの傍にべったりくっついていても不自然でないように、恰好(かっこう)をつけるために、毛糸の箱を持ち出して余念無(wú)げに編物をはじめたのだ。
お母さまは私の手もとをじっと見(jiàn)つめて、
「あなたの靴下(くつした)をあむんでしょう? それなら、もう、八つふやさなければ、はくとき窮屈よ」
とおっしゃった。
私は子供の頃、いくら教えて頂いても、どうもうまく編めなかったが、その時(shí)のようにまごつき、そうして、恥ずかしく、なつかしく、ああもう、こうしてお母さまに教えていただく事も、これでおしまいと思うと、つい涙で編目が見(jiàn)えなくなった。
お母さまは、こうして寢ていらっしゃると、ちっともお苦しそうでなかった。お食事は、もう、けさから全然とおらず、ガーゼにお茶をひたして時(shí)々お口をしめしてあげるだけなのだが、しかし意識(shí)は、はっきりしていて、時(shí)々私におだやかに話しかける。
「新聞に陛下のお寫(xiě)真が出ていたようだけど、もういちど見(jiàn)せて」
私は新聞のその箇所をお母さまのお顔の上にかざしてあげた。
「お老けになった」
「いいえ、これは寫(xiě)真がわるいのよ。こないだのお寫(xiě)真なんか、とてもお若くて、はしゃいでいらしたわ。かえってこんな時(shí)代を、お喜びになっていらっしゃるんでしょう」
「なぜ?」
「だって、陛下もこんど解放されたんですもの」
お母さまは、淋しそうにお笑いになった。それから、しばらくして、
「泣きたくても、もう、涙が出なくなったのよ」
とおっしゃった。
私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではなかろうか。悲しみの限りを通り過(guò)ぎて、不思議な薄明りの気持、あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、幸福なのである。靜かな、秋の午前。日ざしの柔らかな、秋の庭。私は、編物をやめて、胸の高さに光っている海を眺め、
「お母さま。私いままで、ずいぶん世間知らずだったのね」
と言い、それから、もっと言いたい事があったけれども、お座敷の隅(すみ)で靜脈注射の支度などしている看護(hù)婦さんに聞かれるのが恥ずかしくて、言うのをやめた。
「いままでって、……」
とお母さまは、薄くお笑いになって聞きとがめて、
「それでは、いまは世間を知っているの?」
私は、なぜだか顔が真赤になった。
「世間は、わからない」
とお母さまはお顔を向うむきにして、ひとりごとのように小さい聲でおっしゃる。
「私には、わからない。わかっているひとなんか、無(wú)いんじゃないの? いつまで経(た)っても、みんな子供です。なんにも、わかってやしないのです」
けれども、私は生きて行かなければならないのだ。子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもおられなくなった。私はこれから世間と爭(zhēng)って行かなければならないのだ。ああ、お母さまのように、人と爭(zhēng)わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯(しょうがい)を終る事の出來(lái)る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなかろうか。死んで行くひとは美しい。生きるという事。生き殘るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。私は、みごもって、穴を掘る蛇の姿を畳の上に思い描いてみた。けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。あさましくてもよい、私は生き殘って、思う事をしとげるために世間と爭(zhēng)って行こう。お母さまのいよいよ亡くなるという事がきまると、私のロマンチシズムや感傷が次第に消えて、何か自分が油斷のならぬ悪がしこい生きものに変って行くような気分になった。
その日のお晝すぎ、私がお母さまの傍で、お口をうるおしてあげていると、門(mén)の前に自動(dòng)車(chē)がとまった。和田の叔父さまが、叔母さまと一緒に東京から自動(dòng)車(chē)で馳(は)せつけて來(lái)て下さったのだ。叔父さまが、病室にはいっていらして、お母さまの枕元(まくらもと)に黙ってお坐りになったら、お母さまは、ハンケチでご自分のお顔の下半分をかくし、叔父さまのお顔を見(jiàn)つめたまま、お泣きになった。けれども、泣き顔になっただけで、涙は出なかった。お人形のような感じだった。
「直治は、どこ?」
と、しばらくしてお母さまは、私のほうを見(jiàn)ておっしゃった。
私は二階へ行って、洋間のソファに寢そべって新刊の雑誌を読んでいる直治に、
「お母さまが、お呼びですよ」
というと、
「わあ、また愁歎場(chǎng)(しゅうたんば)か。汝等(なんじら)は、よく我慢してあそこに頑張っておれるね。神経が太いんだね。薄情なんだね。我等は、何とも苦しくて、実(げ)に心(こころ)は熱(ねつ)すれども肉體(にくたい)よわく、とてもママの傍にいる気力は無(wú)い」
などと言いながら上衣(うわぎ)を著て、私と一緒に二階から降りて來(lái)た。
二人ならんでお母さまの枕もとに坐ると、お母さまは、急にお蒲団の下から手をお出しになって、そうして、黙って直治のほうを指差し、それから私を指差し、それから叔父さまのほうへお顔をお向けになって、両方の掌をひたとお合せになった。
叔父さまは、大きくうなずいて、
「ああ、わかりましたよ。わかりましたよ」
とおっしゃった。
お母さまは、ご安心なさったように、眼を軽くつぶって、手をお蒲団の中へそっとおいれになった。
私も泣き、直治もうつむいて嗚咽(おえつ)した。
そこへ、三宅さまの老先生が、長(zhǎng)岡からいらして、取り敢(あ)えず注射した。お母さまも、叔父さまに逢えて、もう、心殘りが無(wú)いとお思いになったか、
「先生、早く、楽にして下さいな」
とおっしゃった。
老先生と叔父さまは、顔を見(jiàn)合せて、黙って、そうしてお二人の眼に涙がきらと光った。
私は立って食堂へ行き、叔父さまのお好きなキツネうどんをこしらえて、先生と直治と叔母さまと四人分、支那間へ持って行き、それから叔父さまのお土産の丸ノ內(nèi)ホテルのサンドウィッチを、お母さまにお見(jiàn)せして、お母さまの枕元に置くと、
「忙しいでしょう」
とお母さまは、小聲でおっしゃった。
支那間で皆さんがしばらく雑談をして、叔父さま叔母さまは、どうしても今夜、東京へ帰らなければならぬ用事があるとかで、私に見(jiàn)舞いのお金包を手渡し、三宅さまも看護(hù)婦さんと一緒にお帰りになる事になり、附添いの看護(hù)婦さんに、いろいろ手當(dāng)の仕方を言いつけ、とにかくまだ意識(shí)はしっかりしているし、心臓のほうもそんなにまいっていないから、注射だけでも、もう四、五日は大丈夫だろうという事で、その日いったん皆さんが自動(dòng)車(chē)で東京へ引き上げたのである。
皆さんをお送りして、お座敷へ行くと、お母さまが、私にだけ笑う親しげな笑いかたをなさって、
「忙しかったでしょう」
と、また、囁(ささや)くような小さいお聲でおっしゃった。そのお顔は、活(い)き活(い)きとして、むしろ輝いているように見(jiàn)えた。叔父さまにお逢い出來(lái)てうれしかったのだろう、と私は思った。
「いいえ」
私もすこし浮き浮きした気分になって、にっこり笑った。
そうして、これが、お母さまとの最後のお話であった。
それから、三時(shí)間ばかりして、お母さまは亡くなったのだ。秋のしずかな黃昏(たそがれ)、看護(hù)婦さんに脈をとられて、直治と私と、たった二人の肉親に見(jiàn)守られて、日本で最後の貴婦人だった美しいお母さまが。
お死顔は、殆(ほと)んど、変らなかった。お父上の時(shí)は、さっと、お顔の色が変ったけれども、お母さまのお顔の色は、ちっとも変らずに、呼吸だけが絶えた。その呼吸の絶えたのも、いつと、はっきりわからぬ位であった。お顔のむくみも、前日あたりからとれていて、頬(ほお)が蝋(ろう)のようにすべすべして、薄い唇(くちびる)が幽かにゆがんで微笑(ほほえ)みを含んでいるようにも見(jiàn)えて、生きているお母さまより、なまめかしかった。私は、ピエタのマリヤに似ていると思った。