用太宰聲線讀《人間失格》——最后一張照片

もう一葉の寫真は、最も奇怪なものである。まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その寫真にハッキリ寫っている)の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。
?
第三張照片是最為古怪的,簡直讓人再也無法判定他的年齡。頭上像是已經(jīng)有了些許白發(fā)。那是在某個骯臟無比的房間中的一隅(照片上清晰可見,那房間的墻壁上有三處已經(jīng)剝落),他把雙手伸到小小的火盆烤火,只是這一次他沒有笑,臉上沒有任何表情。
謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする寫真であった。
他就那么坐著,把雙手伸向火盆,儼然已經(jīng)自然而然地死去了一般。這分明是一張彌漫著不祥氣氛的照片。
奇怪なのは、それだけでない。その寫真には、わりに顔が大きく寫っていたので、私は、つくづくその顔の構(gòu)造を調(diào)べる事が出來たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。
但奇怪的還不止這一點。照片把他的臉拍得比較大,使我得以仔細端詳那張臉的結(jié)構(gòu)。額頭長得很平庸,還有眉毛、眼睛。鼻子、嘴巴和下頜。哎呀,這張臉豈止是毫無表情,甚至不能給人留下任何印象。它缺乏特征。
たとえば、私がこの寫真を見て、眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出來るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。畫にならない顔である。漫畫にも何もならない顔である。
?
比如說,一旦我看過照片后閉上雙眼,那張臉便即刻被我忘在九霄云外。盡管我能回憶起那房間的墻壁以及小小的火盆等等,可對于那房間中主人公的印象,卻一下子云消霧散,無論如何也想不起來。那是一張不可能成其為畫面的臉,一張甚至不可能畫成漫畫的臉。
眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。極端な言い方をすれば、眼をひらいてその寫真を再び見ても、思い出せない。そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。
?
于是,我又睜開眼看了看這張照片,哦,原來是這樣一張照片啊。我甚至沒有那種回想起了那張臉以后的愉悅感。如果采用一種極端的說法,即使我再次睜開了雙眼端詳那張照片也無法回憶起那張臉來,而只能變得越發(fā)怏怏不樂、焦躁不安,最后索性把視線掉向一邊了事。
所謂いわゆる「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。
即使是所謂的“死相”,也應(yīng)該再多一些表情或是印象吧?或許把駑馬的腦袋硬安在人的身體之上,就會產(chǎn)生與此類似的感覺吧??傊?,那照片無緣無故地讓人看了毛骨悚然,心生厭惡。
私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。
迄今為止,我還沒有看見過像他那樣不可思議的臉。