空言舌語·日語中的復(fù)數(shù)形式
原文:たち?ら?など
ひとつの言葉から受ける印象=「語感」は微妙に個人差があります。それが混亂や論爭の原因になることもあります。 語感の違いから、放送の現(xiàn)場でいろんな意見が出てくるのが、複數(shù)の人を意味する「たち」「ら」「など」の使いかたです。例えば、「學(xué)生たちが…」「學(xué)生らが…」「學(xué)生などが…」と聞くと、それぞれにどんな印象を持つでしょうか。 微妙に違うものがありますね。まず「學(xué)生ら」「學(xué)生など」というと、學(xué)生以外の人も含んでいそうな気がします。このふたつも、「ら」と「など」では、「など」のほうが範(fàn)囲が広く曖昧な感じもします。 さらに「ら」にはもうひとつ、相手を見下げるような雰囲気があることを見逃すわけにはいきません?!概椤埂袱挨椤工饯蔚湫亭扦筏绀?。その點(diǎn)、「たち」は単なる複數(shù)を表す語とされています。 そんなわけで、放送で複數(shù)の人を表現(xiàn)する時(shí)には、「ら」の使用は避け、「たち」か「など」を使おうという考えかたが主流になってきました。東海テレビなどのフジテレビ系列放送用語も、そのように取り決めています。 ところが、この問題はそう簡単ではありません?!袱椤工韦郅Δ`和感がない場合もあるのです。 「○○大臣らの視察団が」「○○大臣などの視察団が」、あるいは「薬害被害者らが」「薬害被害者たちが」の印象を比較すると、この二例では、むしろ「ら」が適切という気がしてきます。皆さん、どうでしょうか。 私は、こういう複數(shù)表現(xiàn)で判斷に迷う時(shí)は、可能な限り「ら」や「たち」を省略するようにしています。日本語は単數(shù) ?複數(shù)の意識が薄い言語なので、「學(xué)生が」「被害者が」でも十分に複數(shù)の存在を表せると考えるからです。日本語は基本的に単複同形とする學(xué)者もいるようです。 こういう日本語の曖昧さは、永遠(yuǎn)に解決しそうにありません。しかし、そんな不可解さがあるからこそ私にとって最適表現(xiàn)探しは面白いのです。
訳文:
每個人對于某個詞匯傳達(dá)的印象,或者是“語感”,都有細(xì)微的不同。有時(shí)會由此引發(fā)一些爭議。 演播室對于語感的差別有許多看法,這里我想舉例日語中表示復(fù)述的幾個接尾詞“たち”“ら”“など”的用法。比如當(dāng)大家聽到“學(xué)生たち”“學(xué)生ら”“學(xué)生など”這些表達(dá)時(shí),分別會浮現(xiàn)怎樣的印象呢? 它們之間的確有些細(xì)微的差別。首先,在說到“學(xué)生ら”“學(xué)生など”的時(shí)候,其暗含喜一種除了學(xué)生還包括其他人的語感,而在“ら”“など”二者之間,后者指代的范圍更大、更含糊一些。 另外,我們不可忽視的是,在使用“ら”時(shí),帶著輕視這類群體的口氣。典型例子有“奴ら”“お前ら”。另一方面,“たち”則單純地表示復(fù)數(shù)形式。 所以,電視上表達(dá)復(fù)述人稱時(shí),會避免使用“ら”、主流想法仍是使用“たち”、“など”。東海電視臺的富士電視臺系列的播報(bào)用語也都遵循這個原則。 但是,問題遠(yuǎn)不如此簡單。有些情況下用“ら”會更貼切。 分別比較一下如下兩個例子:“○○
大臣ら
の視察団が”“○○
大臣など
の視察団が”(xx官員們的視察團(tuán)),或者“薬害
被害者ら
が”“薬害
被害者たち
が”(藥物副作用受害者們),這種情況下反而用ら會更加合適。不知大家覺得如何? 當(dāng)我糾結(jié)于用那個復(fù)述表達(dá)時(shí),我會盡可能省略不用。日語對于單復(fù)數(shù)的使用并無嚴(yán)格的規(guī)定。僅僅用“學(xué)生”“受害者”已經(jīng)足夠表達(dá)出復(fù)數(shù)的語感了。據(jù)說有學(xué)者認(rèn)為日語基本上是單復(fù)數(shù)同形。
日語中這種模糊的語感,是永遠(yuǎn)沒辦法得到解決的。但是,正因?yàn)樗碾y以理解對于我而言才有探究最佳表達(dá)的趣味。