日本小5課文:4篇古文稍作了解【久我Masahi的日語課堂】#73

長い年月を経て、今日まで読み継がれてきた作品を古典と言います。(經(jīng)過漫長的年月,至今繼續(xù)被人們所讀的作品叫作古典。)
千年以上の昔から、人々は、どのようなものを楽しみ、何を見て、どんな気持ちを抱いていたのでしょう—。古典を読み、昔の人々の心に觸れてみましょう。(千年以上的從前,人們以何為樂,看什么,抱有怎樣的感情呢?通過讀古典,接觸古人們的內(nèi)心吧。)
多くの人に知られている古典の、始まりの部分です。(這是眾所周知的古典的開頭部分。)
言葉の響きやリズムを味わったり、様子を想像したりしながら、聲に出して読みましょう。(一邊品位語言的發(fā)音韻律等,展開想象,一邊發(fā)出聲音朗讀吧。)
小學(xué)階段的古文對(duì)古典語法不作要求,所以本課也不講解古典語法,等到我碼初中內(nèi)容的時(shí)候會(huì)詳細(xì)寫。各位可以對(duì)照古文和現(xiàn)代日文先熟悉一下。要注意的是古文部分,加上括號(hào)的,是現(xiàn)代的讀音。

竹取物語
「竹取物語」は、千年以上も前に書かれた物語です。作者は分かっていません。この物語は、今は、「輝夜姫」の名でも知られています。(《竹取物語》是寫于千年以上的故事。作者不詳。這個(gè)故事如今以《輝夜姬》之名為人所知。)
物語の中の、現(xiàn)実には起こらないような不思議な出來事にわくわくするのは、昔の人も、今の私達(dá)も、同じなのでしょう。(或許古人和我們都一樣,對(duì)于故事中所發(fā)生的現(xiàn)實(shí)中不會(huì)發(fā)生的不可思議的事感到激動(dòng)不已吧?)
古文
今は昔、竹取の翁(おきな)といふ(う)ものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづ(ず)のことに使ひ(い)けり。名をば、さぬきのみやつことなむ(ん)いひ(い)ける。
その竹の中に、もと光る竹なむ(ん)一筋(ひとすじ)ありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸(ずん)ばかりなる人、いとうつくしう(しゅう)てゐ(い)たり。
現(xiàn)代文
昔、竹取の翁と呼ばれる人がいた。翁は、野山に分け入って竹を取っては、色々な物を作るのに使っていた。名前を「さぬきのみやつこ」といった。(從前,有個(gè)被稱作竹取老翁的人。老翁進(jìn)山野砍竹,把竹子做成各種各樣的東西使用。其名為“讃岐造”。)
ある日のこと、その竹林の中に、根元の光る竹が一本あった。不思議に思って、近寄って見ると、筒の中が光っている。それを見ると、手に乗るぐらいの小さな人が、とても可愛らしい様子で座っていた。(某日,竹林中有一根竹子的根部發(fā)亮。老翁感到不可思議地走近一看,竹內(nèi)發(fā)著光。只見一個(gè)小到幾乎可以坐在手上的非??蓯鄣娜俗诶锩妗#?/p>

平家物語
「平家(へいけ)物語」は、平家と呼ばれる武士の一族が、栄え滅んでゆくさまを書いた作品です。作者は分かっていません。(《平家物語》是講述了平家的武士一族由盛轉(zhuǎn)衰的作品。作者不詳。)
移り変わる時(shí)代と、その中を生きる人々の姿に、昔の人は何を感じたのでしょうか。(對(duì)于時(shí)代的變遷以及當(dāng)時(shí)生活著的人們的樣子,古人感受到了什么呢?)
古文
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の聲、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。
紗羅雙樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜(よ)の夢のごとし。
たけき者もつひ(い)には滅びぬ、ひとへ(え)に風(fēng)の前の塵(ちり)に同じ。
現(xiàn)代文
祇園精舎の鐘の音は、「全ての物事は移り変わる」と言うことを人に思い起こさせる響きがある。紗羅雙樹の花の姿は、勢いの盛んな者もいつかは衰える(おとろえる)と言う道理を示している。驕り高ぶる人も長くは続かず、ただ春の夜の夢のように儚い(はかない)。強(qiáng)い者も最後には滅びる。まさに風(fēng)に吹き飛ぶ塵と同じである。(祇園精舍的鐘聲,警示人們諸行無常。娑羅雙樹的花的樣子,啟示勝者必衰的道理。驕傲自大之人也不長久,宛若春夜的黃粱一夢。強(qiáng)者也必終覆滅。如同被風(fēng)吹走的塵埃。)

徒然草
「徒然草(つれづれぐさ)」は、人間の生活や行動(dòng)、移りゆく自然の姿などについて書かれた作品です。作者である兼好法師(けんこうほうし)の、物の見方や考え方が表れています。(《徒然草》是書寫了人們的生活行動(dòng)、變化的自然等的作品。表現(xiàn)出了作者兼好法師看待事物的見解和想法。)
古文
つれづれなるままに、日暮(ぐ)らし、硯(すずり)に向かひ(い)て、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしう(しゅう)こそものぐるほ(お)しけれ。
現(xiàn)代文
することがなく、退屈であるのに任せて、一日中、硯に向かいながら、心に次々と浮かんでは消えていく、取り留めもないことを、何という當(dāng)てもなく書き付けていると、妙に心が亂れて、落ち著いていられない。(百無聊賴中,一整日對(duì)著硯臺(tái),漫無目的地寫著不斷浮上心頭的拉拉雜雜的事,感到煩躁靜不下心。)

奧の細(xì)道
「奧の細(xì)道」は、松尾芭蕉(まつおばしょう)が、江戸(現(xiàn)在の東京)を出発し、弟子の曾良(そら)とともに、東北·北陸の各地を経て大垣(おおがき)(現(xiàn)在の岐阜県大垣市の辺り)に至るまでの旅を記した紀(jì)行文です。(《奧之細(xì)道》是記述了松尾芭蕉與弟子曾良一起,于江戶(現(xiàn)在的東京)出發(fā),經(jīng)過東北·北路各地到達(dá)大垣(現(xiàn)在的岐阜縣大垣市一帶)的游記文。)
旅先で見聞きしたことに心を動(dòng)かされ、書き綴る気持ちは、今の私達(dá)と同じだったのでしょうか。(在旅途中,書寫下深受打動(dòng)的所見所聞的心情,與如今的我們一樣吧?)
古文
月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ(こう)年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへ(え)て老いを迎ふ(むこう)る者は、日々旅にして旅をすみかとす。
現(xiàn)代文
月日は永遠(yuǎn)に旅を続ける旅人のようなものであり、過ぎ去っては新しくやって來る年もまた旅人に似ている。一生を舟の上で暮らす船頭や、馬の轡(くつわ)を取って老年を迎える馬子(まご)(馬を引いて、人や荷物を運(yùn)ぶ仕事をする人)などは、毎日毎日が旅であって、旅そのものを自分のすみかとしている。(歲月如同永遠(yuǎn)在旅行的旅人一樣,歲月逝去后迎來的新年也如同旅人一般。一生在船上生活的船夫,牽著馬轡迎來老年的馬夫(從事牽著馬,搬運(yùn)人或貨物工作的人)等,每日每日都在旅行,把旅行本身視作自己的歸宿。)