? その少年は、まるで迷子の仔犬 [こいぬ] みたいに見(jiàn)えた。 白いTシャツにロールアップのジーンズとスニーカー。真っ黒な髮はすこし目にかかっていて、一ヵ月分くらい余分に伸びてしまったかんじ。肌は健康的に灼けていて、美白やスキンケアなんかとは無(wú)縁だろうに內(nèi)側(cè)から輝くように艶やか。大きな瞳を、たっぷりの好奇心できらきらと光らせていた。 私はといえば、その夏は人生でも底辺に近い場(chǎng)所を彷徨 [さまよ] っているような時(shí)期だった。大學(xué)四年の夏休み。同級(jí)生たちはいくつも企業(yè)の內(nèi)定をもらっているのに、私はまだ就職活動(dòng)すらしていなかった。都內(nèi)の実家で生活費(fèi)にも困っていないくせに毎日アルバイトに通い、かといってそのバイトに熱を入れるでもなく、なにかに抗議するような心持ちで毎日を意識(shí)にだらだらと過(guò)ごしていた。そのな`に`か`とは言葉にするならばたぶん「親」とか「社會(huì)」とか「空気」とか「義務(wù)」とかで、それが幼い反抗心だとは分かってはいても、私はどうしてもまだ就活をする気持ちになれないでいた。まだ早いのに、と私は思っていた。まだ早い。まだ準(zhǔn)備が出來(lái)てない。私はまだ、なににも屈服なんてしたくない。 ——要するに私は大人になりたくなくて拗 [す] ねているのだ。我ながらかなりダサい。そんな自分の駄目さかげんにぼんやりと途方に暮れているときに、少年は現(xiàn)れたのだった。ずいぶん無(wú)邪気に無(wú)防備に、一つひとつの言葉や出來(lái)事や風(fēng)景に大袈裟 [おおげさ] すぎるくらい感動(dòng)しながら。 いきなり部活の後輩の世話(huà)を押しつけられたような、面倒くささと好奇心、ちょっとした誇らしさ。夏美さん夏美さんと、今もバイクの後ろで私の名を呼ぶはしゃいだ聲を聞きながら、私はそんな奇妙な懐かしさと、新しいなにかがふいに始まったような昂 [たか] ぶりを感じていた。バイクで切る雨混じりの風(fēng)が、久しぶりに心地好 [よ] かった。 ＊ ＊ ＊ 「夏美さん、ねえちょっと、今、ベルサイユ宮殿みたいなのがっ! 」 僕は思わず聲を上げた。視界の端に、緑の芝生に囲われた巨大な洋館のようなものが見(jiàn)えたのだ。夏美さんはバイクを運(yùn)転しながら笑う。 「ウケる帆高くん! それは迎賓館だね、このへん赤坂 [あかさか] 御用地だから」 僕は思わず赤くなる。 「君、なんだかずっとはしゃいでるねえ」 夏美さんに赤い顔を見(jiàn)られなくて良かったと、雨合羽 [あまガツパ] の後ろ姿を眺めながら思う。僕は夏美さんのバイクで次の取材場(chǎng)所に向かっているところだ。雨に濡 [ぬ] れた景色が、びゅんびゅんと後ろに流れていく。自分が東京のどのあたりにいるのかはまだぜんぜん分からないけど、どこにいてもどれだけ眺めていても、この風(fēng)景には飽きない。森林のような公園、空を映すぴかぴかのビル、古くさい商店街と人混み、SFめいたフォルムのスタジアム、不意に現(xiàn)れる教會(huì)や鳥(niǎo)居、何千もの部屋が視界に収まるタワーマンションの群れ。ばらばらの場(chǎng)所をぎゅっと詰め込んだ箱庭のようで、自分がこの街で雨を浴びていることが今でも噓みたいに思える。 事務(wù)所は、須賀さんの経営する小さな編集プロダクションだった。 僕が言いつけられた仕事は、まずは雑用全般。事務(wù)所は須賀さんの住居の兼ねていたから、僕は毎朝七時(shí)に起きて食事の準(zhǔn)備をする。料理なんてしたこともなかったから最初はずいぶん戸惑ったのだけれど、幸い須賀さんは家事についてはこだわりがあまりない人のようで、僕が不器用に作った目玉焼きや味噌汁 [みそしる] でも、コンビニで買(mǎi)ったカップの味噌汁とお惣菜 [そうざい] でも、特に感想も區(qū)別もなくもそもそと食べてくれる。 それから、掃除と片付け。須賀さんがそこらじゅうに置きっぱなしにするカップやグラスや空き缶を片付け、食器を洗い、ゴミを分別して出す。須賀さんが子どものように脫ぎ散らかす靴下やTシャツを拾い集めて洗濯をし、トイレとシャワーを掃除する。 その後に、ようやく仕事めいたことを開(kāi)始する。郵便受けに詰め込まれるはがきや封筒を仕分けし、出版社への請(qǐng)求書(shū)を書(shū)き、空き箱に放り込まれている領(lǐng)収書(shū)を日付別にノートの貼り付ける。一番時(shí)間がかかるのはインタビューの文字起こしだ。スマホやICレコーダーに録音された取材の音聲を、文章として打ち直していく。その文章を材料として、須賀さんや夏美さん (そして希 [まれ] には僕) が原稿を作るのだ。 そのうちに、ピンク色のホンダのカブに乗った夏美さんが事務(wù)所にやってくる。夏美さんは社員ではなくアルバイトのようなのだけれど、この會(huì)社の経理面は夏美さんが仕切っている。 「ちょっとお、酒代は交際費(fèi)だって教えたでしょう!? 」 と帳簿を見(jiàn)た夏美さんに叱られ、 「まだこれしか書(shū)けてねえのかよ」 とパソコンを覗 [のぞ] く須賀さんになじられ、 「ちゃんと特売で買(mǎi)わなきゃだめでしょう? 」 とスーパーの領(lǐng)収書(shū)を見(jiàn)た夏美さんに怒られ、 「だからケバを取れって言っただろ? 人間の言い淀 [よど] みまで百パー文字にしても無(wú)意味だろうが! 」 と文章を読んだ須賀さんに怒鳴られる。 『また留守ですか? 明日 [あした] には戻るはずだって昨日あなたが言いましたよね? 』 と締め切りを催促する編集者からの電話(huà)に頭を下げ、 「お前さあ、炭酸は冷やしとかないと臺(tái)無(wú)しだろうが! 」 と、居留守を使っているくせに酒を飲む須賀さんにハイボールのダメ出しをされる。 未知の濁流に押し流されているような毎日で、僕は自分の無(wú)知と無(wú)能にいちいち自分で驚きながら、毎日必死に働く。でも自分でもとても不思議なのだけれど —— どれだけ叱られ続けても仕事はまったく辛 [つら] くはなく、むしろ怒られるほど僕はわくわくと嬉 [うれ] しくなるのだ。どうしてだろう。俺ってそういうタイプだった? つい先月まで、誰(shuí)かに命令されることや押さえつけられることをあれほど憎んでいたのに。この二週間で、自分のなにが変わったのだろう。 「この人たち、晴れ女探してるんだって! 」 「なにそれウケるー! 」 女子高校生の三人組が大聲で笑い、あまりのボリュームに僕は思わず周?chē)欷蛞?jiàn)回してしまう。到著したのは大きな百貨店の向かいにあるファミレスで、平日の晝間だというのに人で溢 [あふ] れている。夏美さんがネットでアポを取った女子高生三人は、制服の短いスカート姿なのにソファーに體育座り。僕は久しぶりに接近した同年代女子たちのあけすけな態(tài)度になんだか気圧 [けお] されてしまう。噂話(huà)を聞かせてもらうことのギャラは、ドリンクバーと好きなデザート一品ずつだそうだ。 「妹の友だちの彼氏の友だちのクラスメイトがね、完璧 [かんべき] に晴れ女なんだって! え、年齢? 知らないけど、妹と同じだとしたら中學(xué)生くらい? でもとにかくすごいのよ、その子がいると晴れになることが多いとかそういう普通のコトじゃなくて、もうネクストレベル晴れ女! 神棚にお願(yuàn)いするみたいにね、いついつ晴れにして欲しいってお願(yuàn)いすればいいんだって。たとえばどうしても晴れて欲しいデートの日とかにさあ —— 」 僕は必死にメモを取る。録音だけに頼るなよ。流れを摑 [つか] んでメモを取れ。そういう須賀さんの言葉を思い出す。 「次いくよ、三十分後に早稲田 [わせだ] でアポ! 」 夏美さんの後ろを、部活の後輩になったような気分で僕は走る。 「メールでもお伝えしましたけどね」 薄い眼鏡をかけた真面目そうな男性が、研究室の前でめんどくさそうな聲を出す。 「セキグチさんの紹介だからお受けしましたけどね、うちは気象庁とも連攜した極めてまっとうな研究室でして。いや別におたくの雑誌がまっとうじゃないというわけではないんですが —— 」 そうやって渋っていた男性が、二十分後にはなぜか泡を飛ばす勢(shì)いで前のめりになっている。 「その時(shí)、私がモニタリングしていた観測(cè)気球のビデオゾンデが異様な影を捉 [とら] えたんですっ! 積亂雲(yún)の探部、地上からは決して見(jiàn)えない雲(yún)の中に、まるで生物のように群れをなして移動(dòng)する微細(xì)な物體が! いやもちろん正體は分かりません、単なるノイズだった可能性もあります、しかしあまり人には言いませんがね、私は空にはまだ未知の生態(tài)系が存在していてもおかしくないと思っています?？栅虾￥瑜辘猡氦盲壬瞍い螭扦?。実際年配の研究者の方々と酒宴でご一緖するとですね、この手の話(huà)というのは必ず話(huà)題にのぼります。たとえば —— 」 「だから冗長(zhǎng)だって。もっと端的に書(shū)けよ。まどろっこしい比喩 [ひゆ] が多すぎ」 とブリントアウトを読む須賀さんに叱られ、 「ちょっお、打ち合わせは會(huì)議費(fèi)でって教えたでしょう!? 」 と帳簿を見(jiàn)た夏美さんに怒られ、 「だから文脈をちゃんと追えよ! 頭とケツがつながってねえだろ。この段全部消して書(shū)き直せ! 」 とパソコンを覗き込んだ須賀さんに怒鳴られる。夕方に取材から戻ってきて既に深夜、僕たちはまだ原稿を書(shū)いている?！缸钚掳?? 東京の都市伝説」。三十ページの特集記事だ。 「あーでもこっちの段は悪くねえから、ページの頭に持ってきて惹 [ひ] きにしてみろ」 「はいっ」 「帆高くんコーヒーいれてくれる? 」 「はいっ」 「インスタントじゃなくて豆挽 [ひ] いて」 「はいっ」 「帆高、俺なんか腹減った」 「はいっ」 「私も。やっぱコーヒーいいや、麺 [めん] がいいな」 「はいっ」 「俺うどんだな。皿うどん」 「はいっ」 「いややっぱ焼きうどん」 「はいっ! 」 クックパッドを表示したiPadをシンクの脇に置き、慣れない包丁で玉ねぎを切り人參 [にんじん] を刻み、豚肉がなかったのでツナを入れて、粉末ソースと一緒にうどんを炒 [いた] め、かつお節(jié)を振りかける。 出來(lái)上がった焼きうどんを運(yùn)ぶ頃には、二人はデスクにつっぷして眠り込んでいる。明日中の原稿がまだ終わっていない、起こさなきゃ —— そう思いつつも、僕はすこしだけ立ち止まり、二人の顔を眺める。須賀さんの肌は乾いていて、無(wú)精髭 [ぶしょうひげ] に白いものがちらちら混じっている。夏美さんは肌も髪もつるつるで、近づくと胸が苦しくなるような素?cái)长蕜訾い工搿６摔趣猡胜螭盲长いい?、と僕は思う。そういえば玉ねぎを切ると涙が出るって本當(dāng)なんだな —— 自分が今までそんな経験もしていなかったことに、僕は今さらに心の底から驚く。そして唐突に、すとん理解する。 —— そうか。皆が取材でなんでも話(huà)してくれるのは、だからだ。女子高生も大學(xué)の研究者もいつかの占い師も、相手が夏美さんだからこそあんなふうに喋 [しやべ] ったのだ。だれのことも否定せず、相手によって態(tài)度も変えず、きらきらした好奇心で相づちをうってくれるこの人だから、荒唐無(wú)稽 [こうとうむけい] なことでも皆すんなりと話(huà)せてしまうのだ。 そうか、だからだ。僕はまた理解する。どんなに叱られてもちっとも辛くない理由。僕が変化したわけじゃない。相手がこの人たちだからだ。須賀さんも夏美さんも、僕が家出少年であろうと関係ないのだ。當(dāng)たり前の従業(yè)員として、當(dāng)たり前に頼ってくれるのだ。僕を叱りながら、お前はもうちょっとマシになれる、彼らはそう言ってくれているのだ。その瞬間だけがチクリと痛い注射のように、それが僕の體を強(qiáng)くしているのだ。 重くてきつい服がようやく脫げたようにすっきりとした気持ちで、起きないと風(fēng)邪ひきますよと、僕は須賀さんの肩を揺すった。 ＊ ＊ ＊ 圭ちゃんが彼を拾った理由が、私にはなんとなく分かるような気がした。私も圭ちゃんもその頃たぶん、きっかけのようなものを探していたのだ。自分の行く先を変える、ほんのすこしの風(fēng)のようなものを。信號(hào)機(jī)の色が変わる、ほんのちょっとのタイミングのようなものを。 ほら、夏美さんも起きてください —— 私の肩を揺する彼の聲を聞きながら、きっともうすぐ —— この夏が終わるころには、長(zhǎng)く続いていた私のモラトリアムも終わるのだという予感のようなものを、私はぼんやりと感じとぃた。