徒然草 第7段 あだし野の露消ゆる時(shí)なく、?吉田兼好 日文念書

あだし野の露消ゆる時(shí)なく :「あだし野」は、京都市右京區(qū)嵯峨、小倉山の麓の 地。中古、火葬場があり、東山の鳥辺山(とりべやま)と併稱された。名は「無常の野」の意で、人の世のはかなさの象徴としても用いられた(『大字林』)?!嘎钉à搿工韦先摔坤淌陇蛞馕钉工搿?/p>
鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習(xí)ひならば、いかにもののあはれもなからん:「鳥部山」は「鳥部野」のこと、京都市東山區(qū)の清水(きよみず)寺から西大谷に通じるあたりの地名。古く、火葬場があった。(『大字林』)。煙が立ち去る事で人の死を意味する。つまり、人が何時(shí)までも死なないのでは、「もののあわれ=無常 観」などというものは無くなってしまう。
世は定めなきこそいみじけれ:世は、無常ゆえによいのだ、というのである。これが、中世の無常観の エッセンスである。
かげろふの夕べを待ち:蜻蛉は朝に生れて夕べには死ぬ(のに、人間は何時(shí)までも長生きしている)。また、夏のセミは秋を知らないほどに短命だ。
つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや:しみじみと一年を暮らせば、豊かな時(shí)間が過ぎていくのだ。逆に、命を惜しいと思って生きていると千年生きても短いと思うだろう?!?/p>
めやすかるべけれ:見た目に感じがよい。見苦しくない。また、無難だろう、などの意。
かたちを恥づる心もなく:歳を取ると、もはや容貌を恥じる心も無くなってしまって。
夕べの陽に子孫を愛して:「夕べの陽」はもはや沈む太陽のように早晩死ぬというのに、子孫のことを気にして、それが栄えるまでの未來を希い、長生きする事ばかり考えるのは、「もののあわれ」の分からない木偶の棒で、あさましいという以外にないというのである。 「朝露にし名利を貪り、夕陽に子孫を愛す」(『白氏文集』)よりの引用。