鏡像段階
生後六ヶ月の乳児は、鏡に映っている自分のイメージを介して自分の身體像を一つのまとまりとして把握することができる。それ以前、乳児は分?jǐn)啶丹欷可眢w感覚の中に生きている。つまり、乳児にとって「身體」や「自我」といった概念が存在しないので、外部からの刺激は最終的に感覚の束みたいなものになる。鏡像段階において、乳児は鏡に映っている自分のイメージを見(jiàn)て、それを自分自身として認(rèn)める。これは自我の起源とでも言える。他者のイメージ、つまり外部に位置するものに自分を同一化しようとしており、自我を作り上げていく。ラカンはそれを疎外と名付けた。他者のイメージ、それはすなわち目にした者の全てだ。鏡はその一つの媒體に過(guò)ぎない。例えば、生まれたばかりの赤ん坊にとっての母親のイメージ、そして兄弟のイメージ、父親のイメージ等々。他者のイメージは自分のイメージとなると言えるなら、自分のイメージは他者のイメージとなるとも言える。言い換えれば、他者のイメージを自分のイメージと認(rèn)めたということは、自分のイメージを他者のイメージに投影することと同然だ。例えば、「他人の気持ちを考えよう」と、小さい頃からよくそういわれてきたけれども、そもそも他人の気持ちは考えられないもので、考えられるのは自分の気持ちに他ならない。要するに、「他人の気持ちを考えよう」ということは、自分の気持ちを他者に投影したうえで他者になって考えるということに過(guò)ぎない。ここで區(qū)別すべきものは他者という概念だ。ここで言ったすべての他者は小文字の他者、つまり想像的他者、想像界に位置する他者となる。ところが、鏡に映った自らのイメージを自分のイメージと簡(jiǎn)単に認(rèn)めることができない。想像界では他者のイメージを巡る爭(zhēng)いが常に起こっている。想像界において、他者のイメージと自分のイメージとの境界線が曖昧なので、生後六ヶ月の乳児は、鏡に映ったイメージは自分のイメージだとも考えられるし、他者のイメージだとも考えられる、といった二者択一の関係に陥った。ラカンはこのような関係を「想像的なもの」と呼んでいる。再び確認(rèn)するが、ここまでの「他者」は小文字の他者、あるいは想像的他者となる。想像界で起きている爭(zhēng)いを終焉に導(dǎo)いた者は大文字の他者に他ならない。鏡像段階において、大文字の他者は第三者として二者択一の関係に參入し、審判の役割を果たして想像界の爭(zhēng)いに一つの和解をもたらす。すると、ここで初めて鏡に映っている自らのイメージを自分自身として受け入れた。さらに具體的に考えてみよう。母親が乳児を抱えて鏡の前に立った。ところが、乳児は直ちに、鏡の中の自らのイメージを自分自身として認(rèn)めることができない。人間は鏡の中の自己像を認(rèn)めるということは決して自明ではないからだ。乳児は自分を抱えている母親の方向に振り向いて、自分と母親の位置関係により鏡に映っているイメージは確かに自分の像だと確信して、そしてようやくそのイメージを自分自身として認(rèn)めることに至った。この例で言うと、母親は大文字の他者、すなわち絶対的他者の役割を果たして、想像界における他者のイメージを巡る爭(zhēng)い(鏡に映っているのは自分の像か、他者の像か)に一つの和解(終息)をもたらした。大文字の他者は象徴界に位置する概念で、様々な意味合いで使われている。例えば法律、ルールや習(xí)俗といった強(qiáng)制力のあるもの、それを法としての大文字の他者と呼ぶ。他には言語(yǔ)としての大文字の他者もある。要するに、言語(yǔ)も他者となる。例をもう一つ挙げよう。家庭において、親が子どもに要求することが強(qiáng)制力を持っている。したがって、小さい子どもにとって親は大文字の他者、あるいは絶対的他者に他ならない。親が言ったこと(親が作った家庭內(nèi)のルール?法則)が子どもの中に一つの理想的自我、すなわち想像的他者が形成され、その理想的自我を自分自身として疎外的に受け入れてそれに近づこうとする。ところが、その理想的自我には決して完全に一致させることができず、そして理想的自我との間に欲望が生じる。理想的自我に永遠(yuǎn)に到達(dá)できないから、我の欲望は無(wú)限にあるということになる。しかし忘れてはいけないのは、その理想的自我は外部から來(lái)たもので、もともと自分のものではないので、それによって生じた欲望も自分のものではなくなる。それは要するに、我々は生涯に渡って他人の欲望を自分の欲望として疎外的に認(rèn)めて生きているということではないかと考えている。 以上のようなプロセスは人の生涯に渡って繰り返して行っている。自我というものは玉ねぎの皮のようなものと見(jiàn)なせる。自我の「皮」を一つ一つと剝いたら、最後に殘ったのは無(wú)だ。つまり、自我は構(gòu)造的に作り上げたもので、家庭や社會(huì)から大きな影響を受けている。それは実存主義的な主體とは全く異なった性格を持っている。