第八章 放棄對勝利的無用感情
※版權(quán)說明:譯者本人僅對本書進(jìn)行漢化翻譯,漢化內(nèi)容中的所有被譯話語,僅代表譯者本人的立場。原書一切版權(quán)均歸佐々木壽人所有。未經(jīng)授權(quán)允許,嚴(yán)禁轉(zhuǎn)載。

第八章 放棄對勝利的無用感情
從判斷中得出的解答

圖5是南二局西家第10巡的手牌,聽牌是在作為第9巡的上一巡,碰出上家打出的7m后打出6m。

場上出現(xiàn)了1枚6m和3枚9m,所以這里會(huì)理所當(dāng)然地選擇聽牌。這里我的持有24300點(diǎn),仍然可以爭取一位的位置(首位點(diǎn)數(shù)為33300)。
如圖5所示,作為寶牌的7p被抓進(jìn)手牌后打出了8m,舍牌如下。

牌河一開始平平無奇,但如果細(xì)看的話,最后的8m手切會(huì)顯得很違和。因?yàn)榕龀?/span>7m后打了6m,接著又手切8m,所以很明顯手里有678m的面子。換句話說,這是從678m的形狀故意暴露出7m打出68m。如果是這樣,在鳴牌7m時(shí),向聽數(shù)不會(huì)改變。
那么為什么有必要做這樣的事情呢?對手恐怕會(huì)對此包郵疑慮,而且可以想象到他們得出這樣的結(jié)論,“轉(zhuǎn)成對對和了嗎?”

既然副露了7m,那么可以認(rèn)為手里有滿貫的種子,特別是役牌是很難打出手的,一般人都是這么想的吧。
雖說不是故意這樣棄牌,但可以推測,當(dāng)一張2m從top手里切出來的時(shí)候,一定是處于這樣的心理狀態(tài)。
在麻將中,有不少棋局都是根據(jù)對手給出的問題推導(dǎo)出答案,這一局或許可以說對手很好地落入了我方的圈套。
?
?
勝利的必要條件
?
關(guān)于人的心理讓我想起了,大約五年前,我的一個(gè)熟人說過這樣的話,“比方說,自己在聽牌等待4m7m,對手等待1m4m時(shí),自己突然打出1m。這種時(shí)候,我就無法容忍麻將的不合理。”聽了這個(gè)我想(這個(gè)人不適合勝負(fù)的世界)。

已經(jīng)是寶牌2的手牌了,摸到6m或赤5s的靠張就聽牌。在這里可以說是摸到了絕好的6s進(jìn)張,要是打出立直后自摸4s那就是莊家倍滿的牌了。然而南家卻在這時(shí)追立直了。

這也是高目三色的勝負(fù)手,而結(jié)果則是莊家的一發(fā)放銃,外加上一枚里寶牌這成了倍滿。我的朋友對這種局面感到非常憤怒,不知道大家會(huì)怎么想。
因?yàn)槭潜稘M的放銃,所以作為點(diǎn)棒分?jǐn)?shù)上來說確實(shí)很痛,也有無法挽回這個(gè)失分而成為末位的時(shí)候吧。
但是,除此之外懷有多余的感情完全沒有意義,因?yàn)槭恰盁o用”的。因?yàn)闊o論如何都不可能作為莊家在這里和到牌。即使莊家在這里暫時(shí)默聽了,反正南家是會(huì)立直的,除非是現(xiàn)物,否則西家、北家也不可能打出47s,充其量也就是南家多得到了一根立直棒的程度吧。
“我每次都在想,為什么明明是同一條筋的牌,自己卻能抓住呢?”我對這樣說的熟人這樣回答。
“這么想有什么好處嗎?”我無意與我的熟人爭論,長年累月積累起來的情緒,不是那么容易就能消除的吧。但是…果然是“無用”的感情。
如果麻將是一局的勝負(fù)還好,但以這種精神狀態(tài)在一定時(shí)間內(nèi)戰(zhàn)斗到底是不可能的。
反過來想想就好了,如果和這樣的人戰(zhàn)斗的話…情緒起伏太大,可能會(huì)在不同的局面下犯錯(cuò),也被認(rèn)為能善用這種局勢的人將獲勝。我打了20多年的麻將,從來沒有見過一個(gè)獲勝的玩家容易發(fā)怒沖昏頭腦而失去冷靜。
麻將是一場心理戰(zhàn)。該如何取勝并盡量保持冷靜,只要抓住這兩點(diǎn),就離勝利更近了。
第8話 勝利へのムダな感情を捨てろ
?
読みから導(dǎo)く解答
?

図5は南2局西家10巡目の手牌である。
テンパイはこの前巡の9巡目。
上家から出た 7m をポンしての打 6m だ。

場には 6m が1枚と、9m が3枚飛んでいることもあり、ここは自然なテンパイ取り。こちらの持ち點(diǎn)も24300ならまだまだトップを狙える位置だ(トップ者は33300)。
そこにドラの 7p を引き込んで打 8m としたのが図5である。
捨て牌は以下。

序盤はいかにも平凡な河だが、見る人が見ればやはり最後の 8m 切りには違和感を覚えることだろう。
7m ポンの打 6m、そして次の 8m 手出しということは、手の內(nèi)に 6m7m8m のメンツがあったことは明らかなのだから。
つまりは、6m 7m 8m の形からわざわざ 7m を曬して 6m、8m を払いにいったということである。
となれば 7m を鳴いた時(shí)點(diǎn)ではシャンテン數(shù)は変わらないことになる。
ではなぜそんな仕掛けをする必要があったのか。
恐らく相手方はそこに疑問を抱くはずだ。
そしてこのような結(jié)論に達(dá)するであろうことも想像できる。
「トイトイへの渡りか?!?/p>
7m を仕掛ける以上は手の內(nèi)に満貫の種はあると考えられるし、特に翻牌は打ち辛い。
普通はそう考えるのではなかろうか。
意図してこのような捨て牌になったわけではないとは言え、1枚切れの 2m がトップ者からポロっとこぼれたときは、きっとそういう心理狀態(tài)にあったのだろうと推測できる。
麻雀には與えられた問題に対して解答を?qū)Г訾工趣い置妞伽胜椁氦ⅳ毪?、こ?局はうまく相手がこちら側(cè)の誘導(dǎo)に嵌ってくれたと言えるのかもしれない。
?
?
勝利への必須事項(xiàng)
?
人の心理で思い出したが、5年ほど前、私の知人がこんなことを言っていた。
「例えば自分が 4m 7m 待ちでテンパイしていて、相手の 1m 4m 待ちに 1m で飛び込んだとするじゃない。そういうときって麻雀の不條理さを許せなくなることがあるんだよね」
これを聞いて私は思った(この人は勝負(fù)の世界に向いてないな)。

既にドラドラの手牌で、6m と 赤5s のくっつきテンバイ。そこに絶好とも言える 6s ツモだ。リーチを打って 4s を引けば親の倍満である。
ところがそこに向かって南家が追っかけリーチ。

こちらも高目が三色の勝負(fù)手。
そして結(jié)果は親の一発放銃。
裏が1枚乗っかっての倍満である。知人はこういう局面に対して強(qiáng)い憤りを覚えるとのことだったが、皆さんならどう感じるだろうか。
倍満の放銃であるから點(diǎn)棒的には確かに痛い。 この失點(diǎn)を取り返せずにラスを引くこともあるだろう。
だが、それ以外に余計(jì)な感情を抱くことは全くもって意味がない。
“ムダ”なのである。
何故ならどうやったってこの親にアガりようはなかったからだ。
仮に親がヤミテンに構(gòu)えたところで南家がどうせリーチなら、現(xiàn)物でもない限り西家、 北家から 4s 7s が出るとも考えられず、せいぜいリーチ棒を得した程度のものだったはず。
「何で同じスジなのにこっちが摑むんだよ、ってのは毎回思うよ」
そう言う知人に私はこう答えた。
「それを思うことで何かプラスがあるわけ?」
知人を論そうという気は別になかった。長年掛けて蓄積された感情というものは、そう簡単に払拭できるものでもないだろう。
だがしかし...。
やっぱり“ムダ”な感情である。
麻雀が1局の勝負(fù)であるならまだしも、この精神狀態(tài)で一定時(shí)間戦い抜くことにはそもそも無理がある。
逆を考えてみればいい。
こんな人間を相手に戦うとしたら...。
感情の起伏が激しいということは、局面、局面でミスも犯すだろうし、ここを上手に利用できた人間が勝つとも考えられる。
私も20年以上牌に觸れてきたが、頭に血が昇りやすい打ち手で勝っている人間を見たことがない。
麻雀は心理戦である。
いかに勝つか。
そして努めて冷靜に。
この2點(diǎn)を押さえただけでも、勝利への道はグッと近づくと思うのだ。