最美情侣中文字幕电影,在线麻豆精品传媒,在线网站高清黄,久久黄色视频

歡迎光臨散文網(wǎng) 會員登陸 & 注冊

SixTONES萬字訪談京本大我篇

2023-02-14 21:07 作者:ramosa  | 我要投稿

京本大我


〔SixTONES〕


「大我はどうしたい?」「やってみたいかも」


──1月にアルバム『1ST』を、2月にはシングル『僕が僕じゃないみたいだ』をリリース。リリースごとに新たな音楽ジャンルに挑戦しているのが、SixTONESらしいね。

「ありがとうございます。ジャニーズに入っていちばんの財産は音楽と出會えたことなので、誇れる音楽をやり続けたいって想いが強いんです。デビューを告げられたとき、じつは喜びと同時に不安にも襲われて。デビューすると、やりたい音楽ができなくなんのかなとか、今までのSixTONES、僕らの信じたSixTONESじゃなくなってしまうかもしれない怖さがあったんです。でも、まだ何の実績もない僕らをスタッフさんは信頼してくれた。アルバム収録曲の楽曲選びだけじゃなく、アレンジに関しても意見を取り入れてくれた。本當に恵まれてます。デビュー前に思った理想のデビュー像と今が重なるというか、今すごい充実してる。改めてデビューしてよかったって思いますね」

──父親が京本政樹さん、母親も蕓能の仕事をしていた。京本くんが蕓能界を目指すのは運命づけられていたようにすら思えるよ。

「よくそう言われるんですけど、小さいころは蕓能界に興味なかったんです。興味が向かないように育てられたって言い方が合ってるかな。僕、父の出演作品を見せてもらったことがないんですね。両親ともに蕓能界の辛さを知ってる。憧れだけでは続かない世界だってことも。だから一度も蕓能界を目指せとは言われなかったし、僕自身、ジャニーズのことも、ほとんど知識がないまま育ちましたからね」

──そうだったんだ。

「あ、でも、さっくん(佐久間大介)とは母親同士が一緒に仕事をしていたこともあって幼馴染だったり、山田(涼介)くんとも昔、同じ公園で遊んでたらしいです。山田くんのお母さんが“近所の公園で一緒に遊んでたコが、京本政樹さんちのコだった”って覚えてて。同じ砂場で遊んでたらしいんですよね。だからジャニーズには何か縁があったのかもしれないですね」

──ジャニーズに興味を持ち始めたのはいつ?

「『ごくせん』の第2シリーズが學校でブームになって、KAT-TUNの存在をなんとなく知って。その後、『野ブタ。をプロデュース』で今度は『青春アミーゴ』がクラスで大ブームになったんです。そんなタイミングでジャニーさんから電話がかかってきて」

──ハワイのジャニーさん行きつけのお店で、京本くん家族が映った寫真が飾ってあって、ジャニーさんがそれを見て“このコ、誰?”ってなったんだよね?

「はい。ジャニーさんから“KAT-TUNのデビューコンサートがあるから見にこない?”って連絡をいただき、“クラスで人気のKAT-TUNを見てみたい!”って軽い気持ちで母と見に行きました」

──最初は観客のつもりだったんだ。

「“サインもらえるかな?”みたいなテンションでしたね。ちょうど、Jr.のオーディションが本番前の會場で行われてて、一緒に踴ってみることになったんです。そしたら、ジャニーさんに“出ちゃいなよ”って言われて軽い気持ちでステージに立ったら、翌日の新聞に寫真つきで載ってしまったんです。ジャニーさんに“次の公演もおいで”って誘われたんですけど、家で家族會議が急遽開かれ“大我はどうしたい?”って父に聞かれて。僕はそれまでずっと運動が苦手だったのが、ダンスをしたときに楽しいなって思えたんで直感で“やってみたいかも”って答えたんです。“本當に大変な世界だよ。しかも大我は2世という目でも見られるから苦しい思いもするよ”ってことも言われて。僕はまだ小學生で、言葉の意味もわからず覚悟があるっぽい顔をして“やってみる!”って答え、Jr.の活動が始まったんです。入ってすぐ、父の言ってた意味がわかりました。最初、がっつりイジメられたんで。靴はなくなるし、衣裝部屋の“京本”ってネームプレートがゴミ箱に捨てられたり。でも、普段は陰キャラなのに、そのときだけは根性が座ってて、泣いたり誰かに相談するってことはしなかったんですよね。そういうことやっていたコたちって、あっとう間にいなくなっていったし」

何のことだっけ!? 僕なんにも覚えてないよ


──Jr.の活動自體はどうだった?

「山田くんや(中島)裕翔くん、Jr.の最前列みたいな場所に、僕もなんとなくいさせてもらって。ただ歌もダンスも苦手でした。山田くんがピカイチにダンスがうまく見えて憧れたんです。山田くんみたいに踴れるようになりたくて、レッスンの休み時間も練習したり、家のリビングで絨毯が毛玉めっちゃできるくらい練習したり」

──がんばったね。

「ただ僕は落ちこぼれでHey! Say! 7っていうユニットからはあふれたんです。そのHey! Say! 7がKAT-TUNのライブのバックにつくことがあったんですけど、山田くんが『探偵學園Q』の撮影で何公演か出られなくなって。本番2日前に“山田の振りつけ覚えて出てくれないか?”って言われ、もう必死で練習してバックについたんです。後になって父から聞かされたんですけど、本番前日の夜、物音がするんで部屋をのぞいたら、僕が寢言でカウントを口ずさみながら踴ってたらしくて。“限界までがんばってんだって思った”って。山田くんのファンには申し訳ないですけど、そのコンサートが映像化されていて、山田くんがいるはずの場所に僕が映ってるんです。山田くんの代役を務めた証が殘ってうれしかったですね」

──歌が苦手だったのはホント?

「ホントです。しかも音癡って自覚がなくて、小學校の音楽祭の練習でめっちゃ大聲で歌ってたら、先生に“本番はなるべく大きい聲で歌わないで”って言われた(笑)。入所して半年後くらいかな?!海庭攻啤护松教铯螭啸氓浅訾毪韦蛑盲匹昆螗工蚊銖姢韦郡幛艘姢皮い郡?、ジャニーズの先輩たちが歌ってたんです。“あ、歌もカッコいい”って思って、それからテゴマス、NEWS、関ジャニ∞、KAT-TUN、KinKi Kids、いろんな人のアルバムを全部借りてきて、歌の練習を始めたんですよね」

──じゃあ、Jr.歴14年、いちばんの逆境っていつだった?

「髙地(優(yōu)吾)の10000字インタビューを読んだんですけど、僕もSexy Zoneでデビューできるかもって瞬間があって。ジャニーさんから突然“YOUに聞いてもらいたいデモテープがある”って何の曲か明かされず渡されたんです。その後、衣裝合わせがあったり、アイドル誌でいつもとちがう組み合わせで寫真を撮ったり、明言はされないけど、“デビューなのかな?”って思うような出來事が続いたんですね。1、2週間後、ジャニーさんから電話が來て“YOUどう思う?”って聞かれ、もしかしてデビューのこと聞かれてるのかなって。僕はジャニーズとしての活動はデビューできなければ高校卒業(yè)までって考えてたから、ラストチャンスになるかもしれないと思って“デビューできるならしたいです”って答えたんです。そしたら“YOUはグループじゃないんだよね。ひとりっていうか。協(xié)調性がまずない”ってはぐらかされて」

──その言葉はキツかったね。

「“未來、終わったのかな”って思った。そしたらジャニーさんと振りつけ師さんに呼ばれ、帝劇で『Kis-My-Ft2 with ジャニーズJr.』の最終日にSexy Zoneのデビュー発表をすることを聞かされて。ただ、(菊池)風磨が骨折した河合(郁人)くんのサポート役を別會場ですることが急遽決まったから、最後の1日しかこれない。でも本番まで時間がなくて松島(聡)やマリウス(葉)はまだ経験が淺くて4人バージョンの振りつけを覚えきれないから、風磨の位置に入ってくれって」

──代役を任されたんだ。

「はい。でもただの代役じゃなくて、“京本のパフォーマンス次第で急遽6人でデビューってこともあるからな”って心を揺さぶることを言われたんです。急いで歌割、振りつけを全部覚えて。未完成というか、ほかのメンバーと比べてキラキラが少ない衣裝で(中島)健人のシンメで踴ったんです。結局、最終日は昨日まで僕がいた位置に風磨が立って、僕はその姿を舞臺の袖からじっと見つめてた。そんときがいちばん心をえぐられたかな。これからはジャニーさんが言ってた“グループじゃなくてひとりで”って方向でやってくんだろうなって」

──でもその後『私立バカレア高?!护违幞螗些`に抜擢され、現(xiàn)SixTONESメンバー6人が腳光を浴びたよね。

「勢いありましたね。この6人でデビューできるかもって一瞬思いました。ただ僕は妙に現(xiàn)実主義なとこがあって、ドラマが終わって徐々に人気に陰りが見え始めたのを感じてた。この6人、もうすぐ解體されてバラバラになるだろうなって空気も。9月に『SUMMARY』を6人でやらせてもらって、最終日に僕は泣いちゃったんです。その涙をデビューに一歩近づいた喜びの涙だと思った人もいた。だけど本當はJr.としてやりきったって感情から流した涙で。人生初の単獨ライブをこの6人でできた。きっと6人でステージに立てるのはこれが最後。Jr.人生の最後の最後に見られた奇跡のような夢の景色にあふれた涙だったんです」

──辭めようと思ってたってこと?

「『SUMMARY』を最後にジャニーズを辭めようって少し前から思ってて、切り出すタイミングを見計らってたんです?!篠UMMARY』を終え、タキツバ(タッキー&翼)の10周年イベントに參加して、僕の中で何かが吹っきれた。イベントを終え家に帰り、ジャニーさんに電話で“辭めたいです”って伝えたんです。ジャニーさん、“本當にそれでいいの?”って引き止めてくれて。それでも僕が“はい”って答えたら“自分で決めたことなら止めることはしないよ”って。最後に“ありがとうございました。お世話になりました”って伝えて電話を切ったんです」

──辭めることは誰かに相談した?

「誰にもしてないですね。電話を切ってリビングに行って“辭めたよ”って両親に伝えたら大騒ぎになりました?!爸卮螭蕸Q斷は一度相談しろって言ったろ”って父は頭を抱えてましたね」

──そこで踏みとどまれたのは?

「ジャニーさんとの電話を切って1時間後くらいかな。振りつけ師さんから電話がきて?!哎弗悭拴`さん、慌ててたぞ。本當にいいのか?”って必死で引き止めてくれたんです。その言葉で揺らいで。“俺が間に入るから、まずは思いつきの発言で混亂させてしまってすみませんでしたって謝れ”って言われ少し冷靜になれたというか。辭めるにしても今じゃないかもしれないって心が傾いたんです。次の日、ジャニーさんに會いに行って“すみませんでした”って謝ったら、“何のことだっけ!? 僕なんにも覚えてないよ”って、僕が戻りやすいようにとぼけてくれた。そのやさしさに僕は涙が止まらなくなって、ジャニーさんがいる限り、ジャニーズを続けようって決めました。大きな借りというか助けてもらったんで」

ここにいない3人にも聲をかけて6人でやろう


──その後、2014年5月の『ガムシャラJ’s party!!』で、バカレア組6人で『Shake It Up』を披露。當時のMYOJOのインタビューで、「この公演をきっかけにバカレアへの未練はなくなった。それぞれの居場所を作ったほうがいい」って発言してる。

「もちろん久しぶりの6人のパフォーマンスを喜んでくれた人たち、待ち望んでいた人たちもいた。ただ、ここにいつまでも執(zhí)著しているのはちがうなって。この6人でしか味わえない素敵な時間が確かにあった。でも、これからもこの6人でって考えは僕の中ではなくなった。“現(xiàn)実を見なきゃ”って」

──グループではなく、ひとりでやっていく決心がついたんだ。

「はい。このころ、ジャニーさんに“小池(修一郎)先生演出の『エリザベート』のオーディションがある”って教えてもらいオーディションを受けに行ったんです。そのときは落ちてしまったんですけど、進むのはこの道だなって」

──ただ、そんなタイミングでジェシーくんと髙地くんがバカレア組を招集。「6人でもう一度やらないか」って聲をかけてるよね?

「じつはそのメシ會の前に、ジェシーと髙地に誘われて3人だけで會ってるんです?!挨长长摔い胜?人にも聲をかけて6人でやろう”って。最初に僕に聲をかけたのは、きっと僕だけ気持ちが離れてることに気づいてたんでしょうね」

──返事に迷った?

「それが迷わなかったんです。あのふたりって目が真っ直ぐじゃないですか。ひとりでやっていくって決心したはずなのに、“うん、やろう”って言葉が自然と出てきたんです。もちろん勢いで言ったわけじゃなくて、できるなら僕も6人でやりたかった。でもそれは現(xiàn)実的じゃないし、ジャニーさんに言われたように僕にグループは向いてないと思ってた。だから無理矢理にでも5人から心を離そうって決めた。なのに、ふたりの目を見たら、そんなことはどうでもよくなって“僕も6人でやりたい”って答えてた」

──そんな経緯だったんだ。

「それから6人でごはんに行って、ジャニーさんにお願いに行ったんです。1曲でいいから6人で歌わせてほしいって。もちろん、その1曲を足がかりにグループ結成やデビューをって野心を抱いてました。だけど大きなことを言える立場にないのもわかってたから、そこは隠して。ただ全部見透かされてましたね。ジャニーさん“デビューなんか大変だよ。常に売上や順位を気にしなきゃいけない”って、6人の現(xiàn)在地じゃないですけど、厳しいことをたくさん言われたんです。最後に“この6人でいつまでも一緒にいる覚悟はあるの?”って聞かれた。6人が“うん”って答えたのを確認して、ジャニーさん別の部屋に行って“SixTONES(シックス?トーンズ)”って書かれた紙を持ってきてくれたんです。すぐ発表どうこうじゃないけど、こういうグループ名の案はあるって。その後、少クラで『HELL, NO』を6人で歌わせてもらえて」

──少しずつ6人での活動が増えていったよね。

「ただ僕に関して言えば、狀況が複雑になったというか?!亥ē辚顶侃`ト』のオーディションに落ちた後、ミュージカルの歌い方を獨學で練習し始めてたんです。これからひとりで活動していくことになるって思ってたし、純粋にミュージカルというものに初めて觸れて歌い方がすごい魅力的だったんで。そしたら“どうしても役が決まらなかったから、もう一度オーディションをします”って聲がかかったんです。再オーディションの日が12月3日、僕のハタチの誕生日でした。後日、再オーディション合格の知らせが屆いたんですよね」

──努力が実ったんだね。

「でも、6人でグループになれるようにがんばろうって時期と舞臺の稽古が同時進行になってしまった。6人での出番を毎月『少クラ』で少しずつもらえるようになり、『ジャニーズ銀座2015』では6人で公演をやらせてもらうことも決まった?;扭伍v係で僕は出られないから出演者は僕以外の5人って発表して。幸運にも稽古が早めに終わり、クリエの初日にサプライズでステージに立てたんです。最終公演の前日だったかな、その日も急遽出られることになって。6人の頭には“シックス?トーンズ”ってグループ名がずっと殘ってて、6人がそろうチャンスが次いつ巡ってくるかわからない。今しかないって話し合って、ジェシーをみんなで囲んでジャニーさんに電話したんです。“次の公演でシックス?トーンズってグループ名、発表していい?”って。ジャニーさん、突然すぎて戸惑ってたけど、僕らからしたらラストチャンス。ジェシーがお願いしますって押しきって、“いいよ”って言ってもらえた」

──そして、ステージ上で発表した。

「ただ本當に僕らは子どもで、物事の進め方を一切知らず、スタッフさん誰ひとり伝えないまま、ステージ上でいきなり“シックス?トーンズって名前をもらいました!”って発表しちゃったんです。知らされてない事務所スタッフはもうパニックで。翌日、呼び出されてジャニーさんも來て話し合いが行われたんです。ジャニーさん、“僕が思ってたのとちょっと違うんだよね”って言い出したんで焦ったけど、グループ名が長いからixを小文字にして発聲しない、SixTONEにしようって。で、改めて“正式にはSixTONESになりました”ってステージで再発表したんです」

俺は止めないよ。どんな決斷でも


──SixTONES結成後も、京本くんは『スーベニア』、2度目の『エリザベート』、『BOSS CAT』など舞臺に活躍の場を広げていく。

「グループとして大切な時期なのに、稽古や本番のために6人でパフォーマンスができないこともあり、めっちゃ迷惑かけたんです。6人そろっていたら受けられた仕事もいくつもキャンセルしてる。それでもみんな文句のひとつも言わなかった。5人を振り回している感覚というか、グループに貢獻できてない。僕がいない5人でのパフォーマンスを見て、5人のほうがバランスいいよなって思ったりもしましたね」

──髙地くんが、“辭めたい”って京本くんに何度か相談されたことがあるって言ってたけど、そんなタイミング?

「そうかもしれないですね。髙地に僕は甘えてる部分があるというか、ふと思ってることを言っちゃうことがあるんですよね。髙地の顔を見てると溜め込んだり、抱え込んでるものが不意にこぼれるっていうか。辭めたかったのはもちろんウソでも、軽い気持ちでもないんすけどポロッと言ってしまった。自分が貢獻できてないって思って辭めたいって話したこともあったし、反対にグループに対しての不満じゃないですけど、僕もできてないとこいっぱいあるけど、5人のできてないことがいろいろ目について、もっと高みを目指すんだったらこれじゃダメだろって辭めたかったこともあった。今思えば、デビューはまだ遠く突破口なんて兆しすら見えなくて不安だったんだと思います。覚えてます。髙地はいつも言ってくれた。“俺は止めないよ。きょもが決めたことなら、どんな決斷も尊重する”って。そう言われて、これからもしどんなことが起こったとしても、“このグループには髙地がいる”って思ったら気持ちが軽くなった。そう言ってくれるメンバーがいるだけで救われるなって辭めずに踏みとどまれた」

──なるほど。

「もちろん、ほかのメンバーにも僕は救われてる。最初のころ、メンバーは舞臺を見に來てなかったんですけど、じょじょに見に來てくれるようになって、それがうれしくて。欠かさず“応援してるぞ”って聲をかけてくれるのはジェシーで、慎太郎なんかは“ミュージカルやってるときの大我はいつもと全然ちがうね”ってよくほめてくれます。メンバーから舞臺の感想を聞けたとき、報われたというか、ここまでやってきたのはまちがってなかったなって」

──一度はひとりでの活動を決めた京本くんからメンバー愛が聞けるのは感慨深いね。

「僕はSixTONESになるまで、グループでの活動がなかった。常に個人戦。自分がいちばんよく見えなきゃいけないし、いちばん認められることで少しずつポジションを確立していくってことをずっと繰り返してきた。だから、グループの絆、チームワーク、そういうことと無縁だったんですよね」

──それが少しずつ変わっていった?

「個人よりもグループとしていちばんいいパフォーマンスをしたいって思えるようになっていった。そう思わせてくれたのはやっぱりメンバーです。SixTONESって、チャラチャラ見えても肝心な部分で熱い人たちで。ふざけていいときは誰かのミスをこれでもかってイジったりするのに、本當に大事な場面で誰かがミスったときは絶対に責めない?!捌綒荨⑵綒?!”って笑い飛ばしてくれる。僕は思い詰めちゃうタイプなんで、そんな5人のマインドに何度も何度も救われた。ずっと自分がいちばんにならなきゃと思っていたのが、いつの間にか自分より大切だって思える仲間ができてた」

──それを絆って呼ぶんだろうね。

「はい。SixTONESの変な団結感も大好きで。誰かが“おもしろいこと思いついた!”って言い出して、急にみんなでオールバックにしてみたり、私服でステージ立ってみたり。僕らのひらめきはだいたいいつも怒られて、たまにほめられて。散々怒られたのに、懲りずにまた誰かが“思いついた!”って言い出して。そんな青春感みたいなものはグループだから、SixTONESだから感じられたことで。そんな日々を繰り返し、自分自身も心を開いていけたんだなって。僕、ジャニーズに入っていちばんの財産は音楽と出會えたことって最初に言いましたよね。今思いましたけど、本當のいちばんの財産は、メンバー5人と出會えたことかもしれないですね」

──その後、2019年6月、ジャニーさんの病室でデビューを告げられる?!覆话菠獯螭盲俊工盲蒲预盲皮郡?。

「このチャンスをつかまないわけにはいかない。でも、どんな未來が待ってるんだろうって不安もあって喜んでいいかわからなかった。僕の何人か向こうに巖もっちゃん(巖本照)が座ってたんですけど、滝沢(秀明)くんの話が終わって、みんなが椅子から立ち上がった瞬間、巖もっちゃんが僕に握手しに來たんです。パッて。手を握られた瞬間、“あ、喜んでいいんだ”って思えた。僕が入所したのが2006年。同じ年に入所した東京Jr.でデビューできてなかったのは、SixTONESのメンバーを除けば巖もっちゃんだけ。いつの間にか同期、みんな辭めてるんです。同じ悔しさ、同じ絶望、同じだけの時間を過ごしてきた巖もっちゃんと握手して、ひと言も言葉は交わしてないんですけど、デビューできてよかった、Snow Manと一緒に、巖もっちゃんと一緒にデビューできてよかったって心から思えたんですよね」

──両親もデビューを喜んでくれたんじゃない?

「そうですね。なんかふたりともいい意味でツンデレじゃないですけど、手放しで“やったね!”ってタイプじゃない。それでも、心から喜んでくれているのは伝わってきました」

──どちらかといえば蕓能界入りに反対だったお父さんは、いつから応援してくれるようになったの?

「最初っからです。もちろん多くは語らないですし、なるべく自分ひとりでがんばれってスタンスを貫いてくれました。でも、僕が先輩のバックでマイクを持たないライブにも足を運んでくれてたんですよね」

北斗をいちばんリスペクトしてます


──メンバーにメッセージを。まずは(田中)樹くん。

「とにかく察する能力が強い人。僕が弱ってるとき、自暴自棄になりそうな時期、いちばん感じ取ってくれた人。そして、何も言わずまずは受け止めてくれる。堀越に転校してからはクラスメイトで、僕は體育が苦手、樹はめんどくさいって理由で、體育があるのに屋上に行って寢転んで時間を潰したりしてた。あの時期、ジャニーズを辭める辭めないでバタバタした後で弱ってた。そんな僕に寄り添ってくれたんだなって今は思う。僕は自己中だし、これからも気をつかわせちゃうだろうけど、ちゃんと感謝してるよってのは伝えたいですね」

──(森本)慎太郎くん。

「じつはグループ內でつながりがいちばん長い。入所直後の慎太郎に振りつけを教える係、なぜか僕が任されて。そのときからだからね」

──學園祭に呼んで、「弟です」って紹介したことがあったんでしょ?

「ありましたね。僕が中3で慎太郎は小6かな。張りきった慎太郎が學園祭のスタート前に來ちゃって、しょうがないからホームルームのとき、ベランダに隠れさせたんです。でも擔任にバレちゃってカーテンをバッて開けたら慎太郎がゲームをやってた?!熬险lだ?”って先生に聞かれたんで、思わず僕が“弟です!”って言って(笑)。無邪気なのはあのころのまんま。これはSixTONESみんなに言えることですけど、尊敬してるんですよひとりひとりを。正直最初は“は!?”って時期もあった。今ならみんなの凄さがわかる。だから今、慎太郎にいちばん期待してる。まだまだこんなもんじゃないよなって」

──髙地くん。

「こんなに仲よくなるとは思ってなかったのが髙地。今、こういう関係になってるのが不思議だよ。僕が“辭める”って言い出したとき、“止めないよ”って言ってくれたけど、內心はめっちゃムカついてたと思う?!按笫陇蕰r期だろ、今”って。僕は髙地に甘えすぎちゃってるから、いつか髙地の心の拠り所じゃないけど、頼ってもらえる存在になりたいと思ってる」

──ジェシーくん。

「じつは去年あたりからふたりで食事に行くことが多くて、意外に僕がジェシーにしか話してないことがあったり、ジェシーも僕にしかってことがある。いざってときは深くしゃべれる仲かな。改めて言わせてもらうけど、SixTONESはジェシーが先頭にいるからここまでこれた。ありがとう。そして、これからもよろしく」

──最後に(松村)北斗くん。

「メンバー全員を尊敬してるけど、今年、去年は特に北斗をいちばんリスペクトしてます。映畫やドラマの撮影、時には3本、4本と同時スケジュールで進行して、それでも弱音は一切吐かない。僕はひとつのことしかできないんで、そのタフさと集中力、憧れるよ」

ファンが僕の最高のライバル


──京本くんの、これからの夢は?

「多くの人に恩返ししながら、同時にグループで演る音楽、舞臺などの個人での音楽、どちらの音楽も、もっと深く掘っていきたいですね」

──個人での音楽のひとつ、昨年主演を務めるはずだったミュージカル『ニュージーズ』の中止は落膽したんじゃない?

「“大丈夫だよ”って強がってもみましたけど、やっぱりすごい虛無感みたいなものはありましたね。1年間ジムやボイトレに通い準備して、『ニュージーズ』のために生きていたと言ってもいいくらいの時間を過ごしてきたんで?!亥衰濠`ジーズ』の臺本、いまだに開くことができなくて。ただ、いろいろ考えたんです?!昂韦Δ欷筏苹顒婴筏皮い毪韦??”って。やっぱり僕の舞臺を見て“ミュージカルを好きになりました”って言ってもらえたり、“歌を聞いて感動しました”って言ってもらえることがいちばんうれしい。だから、これからもそういう言葉をもらっていくためには、ステージに立つたびに成長していかなければいけない。いつまでも下を向いてられないですね」

──最後にファンにメッセージを。

「ファンのおかげで、今めちゃくちゃ楽しくSixTONESやってるよってことを伝えたいかな。僕は口ベタなんで、行動や発表する音楽、作品を通して感謝の気持ちを伝えられたらって思う。あと、ファンをいちばんのライバルだと思ってるってことも伝えたい。僕は臆病な性格で、ちっちゃいころもお遊戯會を休んだり、いろんなことから逃げがちな人間だった。それでもSixTONESになってからは、どんなに逃げ出したくても逃げずに立ち向かってる。ファンの人たちも、逃げ出したくなったり、勇気が出なかったりすることってきっとあると思う。そんなとき、“あんな臆病な京本が、紅白で逃げ出さずに歌ってたな。私もがんばってみよう”みたいに思ってもらえたらうれしい。そう思ってもらえたら、僕もまた逃げずにがんばれる。だからこれからもSixTONESをよろしくお願いします。そして、いつまでも最高のライバルでいてください」


SixTONES萬字訪談京本大我篇的評論 (共 條)

分享到微博請遵守國家法律
武定县| 焉耆| 抚顺县| 祁东县| 华宁县| 马龙县| 本溪| 阳江市| 萍乡市| 綦江县| 长顺县| 青冈县| 西和县| 江西省| 宣汉县| 香港 | 黑山县| 武夷山市| 宣威市| 湾仔区| 莆田市| 石阡县| 曲阳县| 安溪县| 汉川市| 犍为县| 楚雄市| 平果县| 紫阳县| 长乐市| 石首市| 天等县| 常州市| 桦川县| 绥化市| 察隅县| 福贡县| 那曲县| 定南县| 辽源市| 英吉沙县|