米式日記2012
れんこん(藕?)
07.27
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五) ?フジロックに行きたかったが、いろいろとやることがあるので斷念。無(wú)念である。 ?雖然想去富士搖滾,但是因?yàn)橛泻芏嘁龅氖虑樗苑艞壛恕??漬け物は誰(shuí)かが食べているところを見るとおいしそうに見えるので好きだけど、実際食べると不味い。嫌いだ。たくあんなんてあんなに美味しそうなのに。嫌いだ。 看別人吃咸菜的時(shí),感覺好像很好吃,很喜歡。但是實(shí)際吃的話很難吃。討厭。腌蘿卜看起來(lái)也是。吃起來(lái)很討厭。 ?洗濯物を取り込むのを忘れてしまう。 忘記拿衣服了 ?人間は誰(shuí)かに許されていないと聲も出せないのではないか、とよく思う。または許されたいと渇望するから聲をだすか。人間は生まれてから物心つくまでの間で自分以外の他者(多くは親)に愛されることで自分を愛すようになるが、愛されなかった人間はずっとカラカラのままだ。自分が愛されなかったなどと馬鹿なことをいうつもりはないけれど、生まれた瞬間から人間は生きることを許されながらいるのをやめられない。 ·我經(jīng)常想,人如果不被任何人原諒的話,是不是連聲音都說(shuō)不出來(lái)?還是因?yàn)榭释辉彶虐l(fā)出聲音呢?人從出生到懂事,除了自己以外的人(多數(shù)是父母)都會(huì)愛自己,但是沒(méi)有被愛的人一直都是干巴巴的。雖然不打算說(shuō)自己沒(méi)有被愛之類的愚蠢的話,但是從出生的瞬間開始,人類就被允許生存下去。 ?僕がブログやツイッターで書いているこういうことは、結(jié)局誰(shuí)でも言えることだ。こういうことを言い続ければいいものが作れるわけではない。音楽や絵にほとんど影響を及ぼさない。字が読めない人間に字だけ書いてあるお品書きを渡しても理解されないが、料理そのものの味や姿は理解しているし理解できる。言葉なんてその程度のものだ。言葉で理解して知った気にならないほうがいい。僕らは自分が実際に體験した分だけ理解することができる。言葉はあと付けでしかない。 ?我在博客和推特上寫的這樣的話,說(shuō)到底是誰(shuí)都可以說(shuō)出的話”。一直說(shuō)這種話不可能就能做出好東西。對(duì)音樂(lè)和繪畫也幾乎沒(méi)有影響。如給不識(shí)字的人給予文字的評(píng)價(jià)也不會(huì)被理解,但是他們能理解料理本身的味道和樣子。語(yǔ)言這種程度的東西。用語(yǔ)言來(lái)理解,不要在意。我們只有自己實(shí)際體驗(yàn)過(guò)的部分才能理解。語(yǔ)言只是后綴。(不會(huì)呀,翻譯的什么鬼) ?インターネットは恐ろしい。いらんことばかり行ってしまう。煩悩の巣窟だ。 網(wǎng)絡(luò)很可怕。不需要了解的事情盛行。這是煩惱的巢穴。