【源氏物語】「如」渡らせたまひたりや

白:中國人認為,宇宙萬法的那個源頭,他是什么?他是“如如”。對吧。
源:唐人の思し召すにや、世間もろもろ掟の源となるべきこそ、何ごとにかはべらめ。そは「如如」にはべらむ。さることにはべらむ。

白:所以這個詞叫如來。我經(jīng)常說如來這個詞有秘密。如來,“如”來了嗎?
源:かくてこの言葉は如來と申しはべらむ。我ぞ常に聞こえさせたまふ、如來といふ言種は忍びたることありけるを。如來など、「如」渡らせたまひたりや。

白:如來嘛!他真來了嗎?如來!到底來沒來?如來。
源:如來なめり。たしか渡らせたまひたりや。如來。言ひもていけば渡らせたまひたりや。渡らせたまふなめり。

白:為甚如來,他真來了嗎?“如來?!蹦憧纯矗瑏頉]來?如來。
源:など如來におはすらむ。げに渡らせたまひたりや。如來。御覧じたまへ、渡らせたまふことあるかなきか。渡らせたまふなめり。

白:他很厲害。他不是一個有形的。所以你讀《心經(jīng)》,心經(jīng)里面講,觀自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空。注意,不生不滅,不垢不凈,不增不減。如如不動。所以萬物生于有,有生于無,是這樣說的叭?他不是個實體。
源:いとゆゆしくぞ。一つの纏まれるものにもはべらず。さて『心経』を御覧じたまふ時には、『心経』のうちにのたまふ、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空」と。見入れたまへ、「不生不滅不垢不浄不増不減如如不動」を。すなわちすべてはありより生ひ成り、ありはなきより生ひ成るにこそ、さやうのたまはめ。そは実りにもはべらず。

白:我有一次去甘肅講課遇到一個人。他的老師當時有七十多歲了。那個七十多歲的老人家就問那小伙子,他說“真有佛嗎?這個世界真有佛嗎?”一下子把小伙子問傻了。喲,他說真有嗎?一下就問傻了。你想想那是個真理!真理是無相的。所以金剛經(jīng)的一句話叫“凡有所相盡皆虛妄”。見所相非相,那是個真理。
源:いづれの時にか甘粛に伝へするに參りて人に出で會ひはべりける。それの師はそのかみ歳七十あまりたまひたり。その七十あまりの老い人はつひに若人に問へば、かく問ふに:「げに仏にやあらむ。この世にげに仏にや有らむを」とふと若人をば惑はしたまひたり。あな、げにやあらむとのたまひたり、ふと惑はしたまひたり。思し召したまへ、そはまことにやはべらむを。まことは形無きにはべらむを。それよりぞ金剛経の一節(jié)はのたまふに、「凡所有相皆是虛妄」と?!敢娝喾窍唷工取ⅳ饯悉蓼长趣摔悉伽椁啶?。

白:你不能迷信,在這個方面。它是個真理。
源:え無理に信じたまはず、そなたにて見れば。そはまことにはべらむを。

白:所以道可道,非常道。名可名,非常名。但是說那有人說,我非得說。你非得說,我可以告訴你。老子也沒說明白,他不是語言可以描述的。后來西方的語言哲學家叫維特根斯坦把這個事,說了一句名言。維特根斯坦說:“這個世界上有語言能說的,叫說清楚。這個世界上也有超出語言,說不明白的?!本S特根斯坦直接用了倆字,閉嘴。那沒法說嘛!
源:さは道の言ふべきは常の道にあらず、名の名づくべきは常の名にあらざりけり。ただ人ののたまふらむさまに、かならずや言ふべきことはべると。かならず言ふべきことはべれば、聞こえさせたまふべし。老子もあきらかにのたまふことははべらず、そは言葉にて申し述ぶべきにもはべらず。のちに井土興志丹と言ふ南蠻の語學學士はこのことをば、一言にのたまひたり。井土興志丹のたまふに、「この世には言葉のえ言ひはべるあり、言にあらはすと叫へど。この世にも言葉を越えはべる、言にあらはさざるのあり?!咕僚d志丹はただちに二つの文字にて使ひたまふ、くちとじと。とのたまふさまなきにや!

白:所以才有了如來什么?拈花,迦葉微笑。
源:はつかに如來の何かがおはしましたまはむ?花を手に摘みて、迦葉ほほ笑まふにはべる。?

注:
①本文為日本名著《源氏物語》的隨機拼貼剪切,本身無任何語法規(guī)律可言
②作者沒有學過古典文法,一切僅供娛樂
③作者完全擁護贊成郭繼承教授學說