芥川龍之介《羅生門》(一)[轉(zhuǎn)載]
國立臺灣大學(xué)
開放式課程?
《日本近代文學(xué)細讀》
第三講 ?芥川龍之介的初期作品
─羅生門 (一)
授課教師:京都大學(xué) 文學(xué)部 川合康三 教授
網(wǎng)址:http://ocw.aca.ntu.edu.tw/ntu-ocw/ocw/cou/101S105/3
作者:川合康三
1948年生,日本靜岡縣浜松市人。京都大學(xué)文學(xué)博士,原京都大學(xué)文學(xué)部中國文學(xué)系主任教授,現(xiàn)為京都大學(xué)名譽教授。曾任日本中國學(xué)會理事長。
正文:
まず初めに、この題名を何と読むか。ふつう日本では「らしょうもん」と読まれている。問題は「生」の字で、漢音では「セイ」、呉音では「ショウ(シヤウ)」である。あとで出てくる「城」も漢音は「セイ」、呉音が「ジョウ(ジヤウ)」。漢字の音は中國語では意味の違いで二つ以上の音をもつ場合はあっても、基本的に一つの音ですむが、日本語の音読みでは呉音、漢音、そして唐音があって、はなはだややこしい。漢音というのは、隋唐の時期、遣唐使などで中國と往來していた時に中國に渡った人が持ち帰った音、長安、洛陽一帯の音を日本語で単純化してあらわしたもの。それが基準の音となった。しかしそれ以前にも中國の音は日本に入ってきていて日本的な音に変わっていた、それが呉音。呉というようにこれは南朝時代、南京一帯の南方の音が入って來たものである。著物のことを呉服というように「呉」は時に中國を指すことばとなる。仏教は奈良時代より前から入って來たので仏教に関する漢字は今に至るまで呉音で読まれる。たとえば儒家の経書は「ケイショ」であるが、仏教の「お経」は「オキョウ(オキャウ)」と読み分けられる。唐音というのは漢音よりもさらに遅く、宋代以後の中國の音でこれは特殊なわずかな語彙に限られる。呉音、漢音は本來は中國南方の音、中國中原の音という地域の差であるが、日本では流入の時代の差になっている?!赫聿葑印护恕肝膜稀何倪x』、文集」とあり、従來はモンゼン?モンジュウと読まれて昭明文選と白居易の文集を指したが、最近、文集はブンシュウと読まれていたであろうという説が提起されている?!何倪x』は時期が早いので呉音のモンゼンが定著していたが、文集が入って來たのは漢音の時代であり、ブンシュウが正しいであろう、そこにモンジュウと仮名がつけられるのは文獻の上では明治以後のことであるという。ただ、呉音、漢音が基本的に時代の違いを反映しているにしても、慣用によって読み分けられるということも多く、必ずしも合理的説明ですべてが解決するわけではない?!干工藨欷?、「一生」「生涯」―「生活」「生命」などの區(qū)別は慣用化による読み分けであろう?!噶_生門」も理屈からいえば「ラセイモン」であろうが、「ラショウモン」とふつう読まれている。
「羅生門」は芥川の最も早い時期の作品の一つで、一九一五年(大正四年)、二十三歳の時に『帝國文學(xué)』という雑誌に発表された。當(dāng)時、彼は東京帝國大學(xué)文科大學(xué)英文科に在學(xué)中であった?!旱蹏膶W(xué)』は東京帝國大學(xué)の教師、學(xué)生の評論、創(chuàng)作を載せる雑誌。前の年に芥川は同人誌『新思潮』に処女作「老年」を発表している。処女作が「老年」というのは皮肉だった。彼の短い生涯の予兆であるかのようだ。これが『帝國文學(xué)』という、『新思潮』より権威があったであろう雑誌に登載されたことは、自信もあったか。翌年には『新思潮』に「鼻」を発表し、さらに翌年の一九一七年(大正六年)には『羅生門』の名で「鼻」「芋粥」などと合わせて短編小説集として刊行している。

中國の都市はまわりが城壁で囲まれていた。それゆえに都市のことを「城市」という。城壁にはいくつかの門が設(shè)けられ、夜は閉鎖された。こうして町を防禦したのだろう。ヨーロッパの町も基本的に城壁で囲まれていた。日本では中世に土塁で町を囲むことがあたようだが、ヨーロッパや中國ほど大きな城壁はなかった。有名なのは豊臣秀吉が京都に設(shè)けた「御土居(おどい)」というもので、現(xiàn)在はわずかに一部だけのこる。平安朝の京都の町に城壁はなかったと思われる?!噶_城門」という門はあっても「羅城」があったわけではない。
城をとりまく門の意味で羅城門というのであるから、羅生門では意味が通じないが、。すでに昔の文獻のなかに「羅城門」を同音の「羅生門」と表記したものがある。「羅生門」の方を用いた理由はなにか。よく言われるのは、人間の生をテーマとするゆえに生に言い換えた、そこに作者の意図が込められているというもの。果たしてそうであるかどうか、わからない。
「羅生門」といえば、黒沢明の映畫、「羅生門」が世界的によく知られている。ただ、この小説とはほとんど関係がなく、同じ芥川龍之介の「藪の中」(中國語訳は「竹藪中」)を中心に作られたもので、1950年ヴェネチア國際映畫祭グランプリを受賞、黒沢明が世界に知られるきっかけとなった。黒沢がなぜ題名をすり替えたのか、これもわからないが、「藪の中」とするより何やら意味深そうな感じはある。
この小説は『今昔物語』のなかの話に題材を取っている。いわば「故事新編」というべきものである。このことはどのような意味をもつのか、元の話をどのように使っているか、またどのように違うか、それは読み終わってから比べてみることにしよう。
?
ある日の暮方の事である。一人の下人(げにん)が、羅生門(らしょうもん)の下で雨やみを待っていた。
小説の書き出しは、ことに短編小説の場合、とりわけ重みをもつ。和歌、俳句を暗誦するように、小説の冒頭部分も人々は暗誦することがある。これもみごとな書き出しである。
二つの短い文(sentence)のなかに、必要なことがすべて収められている。物語の始まりに必要な要素は、いつ、誰が、どこで――つまり時、人、場所である。その最小限の條件がここにはそろっている。日本語でよい文章とされるのは、簡潔であること。簡潔という意味は、必要な要素を書き記しながら、余分な要素がないこと。これが近代日本の「名文」の條件である。明治の小説にははなはだ饒舌なものが多い。今はあまり読まれない小説はおおむね冗漫な文章で書かれている。今でも評価高く、よく読まれている小説のなかにも、たとえば夏目漱石の『吾輩は貓である』などは、逆に冗長な文章、饒舌な文體をわざと駆使しておしゃべりを楽しむといったものもあるが、近代文學(xué)の流れとしては冗長な文體から簡潔な文體へという変化が認められる。漱石も後年の小説はしだいに簡潔な文體に変わっていく。當(dāng)時、簡潔な文體で知られるのは森鴎外であった。彼の文章には無駄な形容詞がない。さらに大正、昭和では志賀直哉の文體が簡潔で知られ、彼の文體が一つの規(guī)範(fàn)になった。この芥川の小説も簡潔で明晰、新しい文體のありかたを示している。
小説にとっては簡潔であることのうえに加えて、さらに大切なことがある。それは単に意味、內(nèi)容を伝達するのでなく、その言葉が一つの雰囲気を作り出して、読者を一気に小説の世界に導(dǎo)くことである。我々は時が「ある日の夕方」であることを知り、登場人物が「下人」であることをしり、場所が「羅生門の下」であることを知り、彼が雨の止むのを待っていることを知る。が、それだけではない。そこに獨特の一つの世界を作り出している。それを見ていこう。
時については「ある日」というだけで、時代も具體的な日にちを記されない。そのことによって、これが歴史記述とは異なる、物語の言説であることがわかる。時代すら示されていないのだが、以下の「下人」などの語からわかるように、平安朝の時代であろうと漠然とした見當(dāng)はつく。それで十分であって、それ以上は必要ない。歴史事実を書く場合、実際にあった出來事を書くには、実際の或る時點を明示しなければならない。物語はそれを書かないことによって、事実とは異なる、もう一つの世界を浮かび上がらせる。物語の最も単純な形式である「昔話」の場合、「むかしむかし、あるところに一人のおばあさんがいました」といった書き方(語り方)がふつうである。そこでは時間も場所も曖昧なまま放置される。この小説が昔話と連続する性格のものであることが、この書き出しからわかる。
「暮方」は夕方の時間であるが、夕方をあらわすにはいろいろな言葉がある。日暮れ、夕暮れ、たそがれ、……。そのなかで「日暮れ」「夕暮れ」は日が暮れる、さきほどまで明るかったのがしだいに暗くなっていく、その前には太陽があったことを思わせるが、ここはあとでわかるように雨が降り続いているので、太陽を連想させる「日暮れ」はふさわしくない?!袱郡饯臁工舷δ氦欷蛎坤筏い盲郡长趣肖馈¥长欷厦坤筏はδ氦欷螘r間ではないので、それもふさわしくない?!赶Ψ健工趣いΔ长趣肖改悍健工艘环い坤恧Δⅰ赶Ψ健工趣いΔ壬罡肖椁?。また小説の冒頭としてあまりに日常的なことばでもある。そう考えると、「暮方」というのが一番ふさわしいかに思われてくる。
暮れ方の時間とは晝間の時間が終わり、夜の時間が始まる時。晝と夜の交わる時點。夕暮れ時は、物語的世界ではしばしば魔物に出會う時刻とされる?!袱蓼趣ǚ辘δГ瑫r)」という言葉もある。それは薄暗いために不気味な、怪しい物に遭遇しやすいということもあるが、それ以上に重要なのは晝と夜の境界であることだ。魔物は時間的な境界、空間的にも橋など境界によく出現(xiàn)する。過去においては夕暮れはそういう恐ろしい時間であったが、それが薄れた時代になっても、夕暮れは特別な時間と意識される。たとえば歌のなかでも今でも夕暮れが多い。真っ晝間はあまり歌われることはない。歌で夕暮れが多いのはそれがロマンチックな情感を伴うからだろう。怪奇性、恐ろしさは消えても、晝と夜の境界の特別な時間、晝間には起こりにくいことが起こる時間であることはのこる。ここでも何か起こりそうな気配はあるにしても、直接に魔物の到來を予告するものではない。近代的な「夕暮れ」に近づいている。
「下人」は身分の低い、下働きの者。厳密には平安時代以後、荘園、地頭に隷屬した、売買の対象となる一種の奴隷的存在を指す。ここではそこまで限定する必要はない。単に下働きで暮らしている、身分の低い男でよいだろう。
「下人」というだけで、名前はない。この小説には一人も名前をもった人物が登場しない。これも「昔話」の話法と同じだ。昔話には「おじいさん」「おばあさん」が登場するが名前をもった人間は登場しない。名前がないということは、「下人」という階層の人々に共通する性格だけ備えて、それ以上の個性がない、個性を必要としないからだ。ここが近代文學(xué)と異なるところだが、この小説はあえて近代文學(xué)と異なる書き方を用いながら、別の仕方で近代文學(xué)になっている。それについては後述。
?
「雨やみを待っていた」あたりは夕暮れに加えて、雨が降りしきっていたことがわかる。いっそう暗い雰囲気が漂う。この出だしの部分はまるで映畫の冒頭場面のようだ。視覚的に鮮やかな映像を作者は短い言葉でカメラをまわすように描き出す。
雨はこの小説のなかで大きな役割をもっている。あとにも雨の描寫が出てくるが、雨によってまわりの世界は遮斷され、羅生門のなかだけに限定される。
?
広い門の下には、この男の外(ほか)に誰もいない。ただ、所々丹塗(にぬり)の剝(は)げた、大きな円柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路(すざくおおじ)にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子(もみえぼし)が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
?
この段は羅生門の下に下人一人しかいないことをいう。赤く塗った柱が所々剝げている―都の荒廃ぶりを示す。都の荒廃はこのあとにも記述される。
きりぎりすは秋の蟲の一種?,F(xiàn)代語ではキリギリスという名の蟲であるが、古くはコオロギを意味する。コオロギにしてもキリギリスにしても秋の蟲の何より大きな屬性は「鳴く」ことだ。キリギリス(コオロギ)はその鳴き聲によって秋の情感を人に與える。蟋蟀は中國では早く『詩経』豳風(fēng)?七月に「十月蟋蟀入我床下」 ???と登場する。しかしその後、中國よりも日本で秋の蟲は秋の季節(jié)と結(jié)びついて欠くべからざるものとなる。ところがここでの蟋蟀は鳴いていない。なぜ鳴かないのか。鳴いている蟋蟀ならば、秋の季節(jié)のしみじみとした情感がかもしだされるが、鳴かないことによってこの蟋蟀は屬性を失っている。もはや鳴く力もなく、へばりついているだけの蟲。生命力を失った蟲。それも一匹だけ。この情景がこの物語の荒涼、寂寞とした感じを添える。
?
朱雀大路にある以上は、
……からには、既然……就…… 朱雀大路という都の最も大きな通り、したがって最もにぎやかであるはずの通り。
?
市女笠や揉烏帽子
市女とは物売りの女。市女笠は女のかぶるもの。烏帽子は男の帽子。ここでは帽子という一部でその人をあらわす。提喩というレトリック。
?
もう二三人はありそうなものである
「ほかにも二三人いてもいいと思われる?!棺髡撙啢蛞姢护?。作者の判斷、推量をいう。この言い方にこの小説における作者の複雑な役割が示される。小説のなかのすべては作者が作っているはずである。下人一人しかここにいないということも作者がそのように設(shè)定したことだ。そうであるのに、ここではいかにも下人一人しかいない、ほかに誰もいないことが意外なことであるかのように作者は疑問を呈している。これはどんな働きをしているのだろうか。作者はすべてを知っているという特権的な立場を捨てて、読者と同じ立場に立とうとする。このようなにぎやかであるべき場所に一人の男以外、誰もいない。それを意外に思う読者の立場に立つ。あるいは作者がそういうことによって読者に意外に思わせる。そしてなぜそうなのかという興味を読者に呼び起こす。読者に次の事態(tài)への転換を期待させる。
?
何故かというと、この二三年、京都には、地震とか辻風(fēng)(つじかぜ)とか火事とか饑饉とかいう災(zāi)(わざわい)がつづいて起った。そこで洛中(らくちゅう)のさびれ方は一通りではない。
?
読者になぜだろうかと疑問を起こさせたうえで、その理由を説明する。
地震、火事という災(zāi)害。これは恐ろしいものの代表。地震、雷、火事、親父の俗語もある。飢饉も災(zāi)害。すべて人の生命に危険を及ぼす。一つ加わっているのが「辻風(fēng)」。これは旋風(fēng)、つむじ風(fēng)のことで不吉なもの、災(zāi)害の一つに數(shù)えられたようだ。
「とか」を連ねて、多くのものを列挙する。これでもかこれでもか、いくらでもあるという次々と様々な災(zāi)害が起こったことを強調(diào)する。
語釈: 「一通りでない」――程度が普通でない。
都がさびれる?;膸筏慷激枧_。それゆえに以下の出來事が起こる。
?
舊記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹(に)がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪(たきぎ)の料(しろ)に売っていたという事である。
?
「舊記によると(昔の人の書き殘した記録によると)」――ここにも作者が登場。昔話とは違って、近代文學(xué)らしい手法といえる。鴨長明「方丈記」による。鎌倉時代の災(zāi)害のあとの京都を書く。
「薪の料」、たきぎの代わり、「しろ」は「代」と表記するのがふつう。「身代金」からだの代わりとして払う金?!革嫟叽?、酒の代わりとして払う金。
仏像や仏具(仏前に供える器物)は宗教心あるものにとっては、大切なものであるし、また恐れ多い、尊い物を傷つける、してはならないことであるはずである。神とか仏に対しては傷つけたり汚したりしてはいけないという風(fēng)習(xí)が日本にはまだのこっている。そうしたことをするとバチがあたる、と日本人は考える。
そうした風(fēng)習(xí)のなかで仏像や仏具をたきぎの代わりに燃やすことを捉えると、それほどまでに生活に困っている、たきぎすら欠乏しているということがわかる。
?
洛中がその始末であるから、羅生門の修理(しゅり)などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐貍(こり)が棲(す)む。盜人(ぬすびと)が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って來て、棄てて行くという習(xí)慣さえ出來た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
?
語釈:「その始末であるから」始めから終わりまでということから物事のいきさつ、なりゆき。
「よいことに」都合がいいこととして。
「日の目を見る」ふつうは埋もれていたものが世間に知られるようになることをいう。
「足ぶみをしない」足を踏み入れない。
都の荒廃が羅生門という都のシンボルをも荒廃させ、人が寄りつかない恐ろしい場所にしてしまった。死人が登場することで、この物語にとって必要な要素がここにあらわれる。
?
その代りまた鴉(からす)が何処(どこ)からか、たくさん集って來た。晝間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾(しび)のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻(ごま)をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄(ついば)みに來るのである。
?
語釈:「その代わりに」人が足を踏み入れない代わりに。
「鴟尾」屋根の最も高いところに水平に置いた棟、その両端の飾り。鴟はトンビ。
人の不在証明のようにカラスが登場する。人がいない所にあらわれるというのも気味が悪いが、カラスは屍體をついばむと考えられた。どこでもカラスは不吉な鳥とされる。
ただ自然描寫としては実際と異なるところがある?!篙啢蛎瑜い啤工趣ⅳ毪?、カラスはトンビ、ワシといった猛禽類と違って、空中で輪を描くように飛ぶことはない。また夕暮れに集まってくるのは巣に帰るからである。カラスは數(shù)百羽の群れが一つの場所に営巣し、晝間はあちこちに飛んでいったのが夕方に集合するという習(xí)性がある。もし屍體をついばみにくるのなら晝間にするだろう。
しかしそうした事実との乖離は大きな問題でない。それよりこの段で印象にのこるのは、夕焼けの空にごまをまいたようにはっきり見えるカラスの映像である。事態(tài)は気味悪いにもかかわらず、赤い背景に黒い點々という描寫は視覚的に鮮やかそのものである。
?
――もっとも今日は、刻限(こくげん)が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞(くそ)が、點々と白くこびりついているのが見える。
?
夕焼けのカラスを美しく描いておきながら、今日は見えないと転じる。時刻が遅くてすでに巣に帰ってしまっただけではない。ずっと雨が降り続いてそんな日にカラスは空を飛びはしない。
空を飛ぶカラスの代わりに目に入るのはカラスの糞である。これも闇の迫る時に白い點が視覚的に鮮やかな映像を見せる。
総じてすぐれて視覚的映像を主體として、作者は「見る」人となって読み手に狀況を伝えている。
もう一つ気づくことは、描寫が次々と付け加えられて展開するのでなく、或る一つのことを提起するとそれが不在であると否定し、言っては打ち消し、言っては打ち消すというかたちで続くことだ。「もう二三人はありそうなものである?!工趣い盲皮椤袱饯欷ⅳ长文肖韦郅摔险lもいない。」「その代りまた鴉(からす)がどこからか、たくさん集って來た?!工妊预い胜?、「一羽も見えない?!勾铯辘摔ⅳ毪韦稀给fの糞」というかたちが繰り返される。この手法は作者が読者に対して高圧的な立場から敘述を繰り広げるのでなく、読者と同じように予想したり予想が覆ったりしながら展開するという態(tài)度を示す。
有道翻譯:
首先,這個題目該怎么讀?一般在日本被讀作“羅生門”。問題是“生”字,漢音是“成”,吳音是“昭”。后來出現(xiàn)的“城”的漢語發(fā)音也是“成”,吳音是“城”。漢字的音讀在漢語中由于意思的不同,有時會有兩個以上的音,但基本上都是一個音,而日語的音讀有吳音、漢音和唐音,相當(dāng)復(fù)雜。所謂“漢音”,是指隋唐時期,遣唐使等與中國往來時到中國的人帶回的音,是將長安、洛陽一帶的音用日語簡化后的表現(xiàn)。那是基準的聲音。但在此之前,中國的聲音傳入日本,變成了日本式的聲音,那就是吳音。“吳”是南朝時代南京一帶的南方音傳入的。就像和服被稱為吳服一樣,“吳”有時也指中國。佛教在奈良時代之前傳入日本,所以與佛教相關(guān)的漢字至今仍用吳音來讀。例如儒家的經(jīng)書是“經(jīng)書”,而佛教的“佛經(jīng)”是“御教”。唐音比漢音更晚,是宋代以后的中國音,僅限于少數(shù)特殊詞匯。吳音、漢音本來是中國南方的音、中國中原的音,是地域上的差異,在日本則是傳入時代的差異。《枕草子》中有“文為《文選》、文集”的記載,以前讀作“montzen - montung”,指的是昭明文選和白居易的文集,但最近有人提出文集可能被讀作“文集”。《文選》由于時期較早,吳音的文辭已經(jīng)固定下來,文集傳入是在漢音時代,文辭應(yīng)該是正確的,在文獻上用文辭和假名命名是明治以后的事了。但是,即使吳音、漢音基本上反映了時代的差異,也有很多根據(jù)慣用來區(qū)分的情況,合理的說明未必能解決所有問題。回到“生”,“一生”“生涯”—“生活”“生命”等的區(qū)別是根據(jù)慣用化來區(qū)分的吧。《羅生門》按道理應(yīng)該是“羅生門”,但一般人讀作“羅生門”。
《羅生門》是芥川最早的作品之一,發(fā)表在1915年(大正四年)23歲的《帝國文學(xué)》雜志上。當(dāng)時,他正在東京帝國大學(xué)文科大學(xué)英文科就讀。《帝國文學(xué)》是刊登東京帝國大學(xué)教師、學(xué)生評論、創(chuàng)作的雜志。前一年芥川在同人志《新思潮》上發(fā)表了處女作《老年》。處女作是《老年》真是諷刺。這似乎是他短暫一生的預(yù)兆。《帝國文學(xué)》刊登在比《新思潮》更有權(quán)威的雜志上,他有自信嗎?第二年,他在《新思潮》上發(fā)表了《鼻子》,又在第二年的1917年(大正六年),以《羅生門》之名,與《鼻子》、《芋粥》等短篇小說集合刊。
書名《羅生門》是貫穿京都南北的朱雀大路南端的羅城門。北端是朱雀門。那是以前京都實際存在的地名。京都以長安和洛陽為原型,像棋盤一樣縱橫交錯。知道長安、洛陽的城門名稱,卻沒有羅城門之名。并不是直接使用了中國的門名,而是因為羅城(外面的城郭)的門的意思,所以命名為羅城門。
中國的城市四周都有城墻。因此,都市被稱為“城市”。城墻上設(shè)置了幾個門,晚上關(guān)閉。是這樣防御城市的吧。歐洲的城鎮(zhèn)基本上也被城墻包圍。在日本,中世紀好像有用土壘包圍城鎮(zhèn),但沒有歐洲和中國那么大的城墻。比較有名的是豐臣秀吉在京都設(shè)立的“御土居”,現(xiàn)在只剩下一小部分。平安時代的京都沒有城墻。當(dāng)時雖然有“羅城門”,但并沒有“羅城”。
羅城門的意思是包圍城的門,羅生門的意思就不通了。早在古代文獻中就把“羅城門”寫成同音的“羅生門”。使用《羅生門》的理由是什么?人們常說,因為是以人的生活為主題,所以把它換成生活,其中包含著作者的意圖。到底是不是這樣,我不知道。
說起《羅生門》,全世界都知道黑澤明的電影《羅生門》。不過,和這部小說幾乎沒有關(guān)系,同樣是以芥川龍之介的《竹林中》(中文譯為《竹竹林中》)為中心創(chuàng)作的,1950年獲得威尼斯國際電影節(jié)大獎,成為黑澤明聞名世界的契機。雖然不知道黑澤為什么要調(diào)換片名,但總覺得比《竹林中》意味深長。
這部小說取材于《今昔物語》中的故事。可以說是“故事新編”。這件事有什么意義,怎么使用原來的話,又有什么不同,讀完以后再比較吧。
一天傍晚。一個下人在羅生門下等待雨停。
小說的開頭,尤其是短篇小說,尤為重要。就像背誦和歌、俳句一樣,人們有時也會背誦小說的開頭部分。這也是一個漂亮的開頭。
在兩個短句(sentence)中,包含了所有必要的內(nèi)容。故事開始的必要要素是何時、誰、何地——即時間、人、地點。這個最低限度的條件在這里都具備了。在日語中被認為是好的文章,簡潔。所謂簡潔,就是在記錄必要要素的同時,沒有多余的要素。這就是近代日本“名文”的條件。明治時代的小說中有很多饒舌的東西。現(xiàn)在不怎么讀的小說大都是用冗長的文章寫成的。即使是現(xiàn)在評價很高、經(jīng)常被閱讀的小說,例如夏目漱石的《我是貓》等,也有故意使用冗長的文章、饒舌的文體來享受聊天的東西,但作為近代文學(xué)的潮流來說,這是冗余的從簡潔的文體向簡潔的文體的變化被認可。漱石后來的小說也逐漸轉(zhuǎn)向簡潔的文體。當(dāng)時,以簡潔的文體而聞名的是森鷗外。他的文章里沒有多余的形容詞。到了大正、昭和時期,志賀直哉的文體以簡潔著稱,成為一種規(guī)范。芥川的這部小說也表現(xiàn)出簡潔、明晰、新穎的文體風(fēng)格。
對于小說來說,除了簡潔之外,還有更重要的一點。那不是單純地傳達意義、內(nèi)容,而是用語言創(chuàng)造出一種氛圍,一下子把讀者引向小說的世界。我們知道時間是“某天傍晚”,知道登場人物是“下人”,知道地點是“羅生門下”,知道他在等雨停。但不僅如此。在那里創(chuàng)造出了獨特的一個世界。我們來看一下。
關(guān)于時間只說“某一天”,時代也沒有具體的日期。由此可知,這是一種不同于歷史記述的敘事話語。雖然連時代都沒有顯示,但從以下的“將傭”等詞語可以大致推測出是平安時代。這樣就足夠了,不需要更多。在寫歷史事實時,如果要寫真實發(fā)生的事情,就必須標明真實的某個時間點。故事因不寫而浮現(xiàn)出與事實不同的另一個世界。故事最單純形式的“傳說故事”,一般是“很久很久以前,某個地方有一位老奶奶”這樣的寫法(講述方式)。在那里,時間和地點都被放置得模棱兩可。從這篇小說的開頭可以看出,這篇小說具有與過去故事相連的性質(zhì)。
“暮方”指的是傍晚的時間,有各種各樣的詞語來表示傍晚。日落、黃昏、黃昏……。其中“日暮”“日暮”是指太陽下山,剛才還是明亮的,現(xiàn)在逐漸變暗,讓人聯(lián)想到之前有太陽,但這里是后面會知道的,一直下雨,讓人聯(lián)想到太陽。日暮”不合適。“黃昏”是把黃昏說得很美的詞語。這不是美麗的黃昏時間,所以也不合適。“傍晚”這個詞與“暮色”最接近,但“傍晚”總是伴隨著生活感。作為小說的開頭,這句話過于日常。這樣想來,“生活方式”是最合適不過的了。
暮方的時間是指白天的時間結(jié)束,夜晚的時間開始的時候。白天和夜晚交匯的時間點。黃昏時分,在物語世界中常常被認為是與魔物相遇的時刻。有句話叫“逢魔時”。因為光線昏暗,很容易遇到詭異的東西,但更重要的是這里是晝夜的分界。魔物經(jīng)常出現(xiàn)在時間上的境界、空間上的橋等境界。在過去,黃昏是一個很可怕的時間,即使到了這個時間淡薄的時代,人們也會意識到黃昏是一個特別的時間。比如歌里現(xiàn)在也有很多黃昏。大白天很少有人唱歌。歌曲多在黃昏是因為它伴隨著浪漫的情感吧。即使怪異和恐怖消失了,白天和夜晚的界限的特別時間,在白天很難發(fā)生的事情發(fā)生的時間,還是會殘留下來。這里雖然也有什么要發(fā)生的跡象,但并不是直接預(yù)示著魔物的到來。接近現(xiàn)代化的“黃昏”。
“家將”是指身份低微、打下手的人。嚴格來說是指平安時代以后,隸屬于莊園、地頭,成為買賣對象的一種奴隸性的存在。這里沒必要限定那么多。只要是個靠打下手、身份低微的男人就可以了。
只叫“下人”,沒有名字。這部小說里沒有一個有名字的人物。這也和“過去的故事”一樣。古代故事中有“老爺爺”、“老奶奶”,但沒有名字的人。沒有名字,是因為“家將”這個階層的人們只具備共同的性格,沒有其他的個性,也不需要個性。這是與近代文學(xué)不同的地方,這部小說采用了與近代文學(xué)不同的寫法,卻以另一種方式成為近代文學(xué)。關(guān)于那個后述。
“一直在等雨停”這一段是黃昏,再加上下起了雨。氣氛更加陰沉。這個開頭就像電影的開頭。作者用簡短的語言像轉(zhuǎn)動照相機一樣描繪出視覺上鮮明的影像。
雨在這部小說中起著很大的作用。后面雖然也有關(guān)于雨的描寫,但雨將周圍的世界隔絕,只局限在羅生門身上。
寬闊的門下,除了這個男人之外沒有其他人。只在斑駁的大圓柱上,蹲著一只蟋蟀。既然羅生門位于朱雀大路,那么除了這個男人之外,應(yīng)該還有兩三個人戴著防雨的女笠和揉烏帽子。除了這個男人,別無他人。
這段是說羅生門手下只有下人。涂成紅色的柱子到處剝落,顯示了京城的荒廢。京城的荒廢在這之后也有記載。
蟋蟀是秋蟲的一種。現(xiàn)代語名為蟈蟈的蟲子,在古代是蟋蟀的意思。無論是蟋蟀還是蟈蟈,秋蟲最大的屬性就是“叫”。蟋蟀通過它的叫聲,給人以秋天的情感。雕飾,《詩經(jīng)》在中國早豳風(fēng)·七月“十月蟋蟀入我床下”登場。但是后來,比起中國,日本更重視秋蟲。