何為れぞ良知は慾望に比して更に真実なるや?
慾望は是れ染汚である。慾望の源頭は是れ自我に対する執(zhí)著である。而して是れ自我は有限的であり、必死的である。因り而して是れ慾望は有限的なり、是れは一種たる臨時之需求である。 然り而して、自我は哪れ種か角度に來りて説くとも、是れ都て一種たる仮設(shè)であり、是れ我們が這個の世界を認(rèn)識するに必須なる工具である。因りて為に但だ凡そ認(rèn)識活動には、必ず須く主體と客體の分別を設(shè)置すべし、是れ自我に就きて此れに因り而して生す。実際上には並して獨立的なりして明確に指し出して而して其他たる概念に任何なる混淆の自我に會く有ら不ることに存在せ不。 那れ麼、実際上には自我は只だ是れ人為で自然中に従ひて切割ることに出らる一部分に過ぎたるは不し。自我と自然は本に一體と為す。自我の無限性を感知せば是れ良知である、正に我們は世界と一體と為し、我は毎に一個の人と一體と為することに因りて為に才く善有りと言う可し。人の苦難を見るに才く不忍が心に生す。 真我の無限に而して良知を生す、自我の有限に而して慾望を生す。因り而して良知、道徳、善は慾望、悪に比して更に真実である。
標(biāo)簽: