【日本小5道德】27#感動的事,這是我的作品~巴勃羅·畢加索
感動したこと、それが僕の作品~パブロ·ピカソ
(感動的事,這是我的作品~巴勃羅·畢加索)
作者:岡 信子(おか のぶこ)
パブロ·ピカソは、一八八一年、スペインのマラガ市で生まれました。父親は美術(shù)學校の教師。その父親の影響を受けたせいか、ピカソは幼い頃から絵を描くのが大好きでした。
(巴勃羅·畢加索于1881年,在西班牙的馬拉加市出生。父親是美術(shù)學校的教師。似乎是受到了父親的影響,畢加索從幼時起就最喜歡畫畫了。)
ある日、こっそりと父親のアトリエに入ったピカソは、父親のお気に入りのハトの絵の中から、かきかけの絵を見つけ、筆を持つやいなや、たちまちその絵を仕上げてしまいました。アトリエに入った父親は、驚きのあまり棒立ちになりました。
(某日,畢加索偷偷進了父親的畫室,發(fā)現(xiàn)父親喜歡的鴿子的畫中,有還沒畫完的畫,他一拿起筆,就很快將這幅畫畫完了。進入了畫室的父親過于驚訝地呆立在原地。)
「何て素晴らしいんだ。まるでハトが生きているようだ!」
(“好棒啊。鴿子栩栩如生!”)
その日から、父親は絵を描くことをぷっつりとやめてしまいました。
(從這日起,父親斷然放棄繪畫了。)
「絵を描くことはお前に任せるよ?!?/p>
(“畫畫的事就交給你了?!?/span>)
ピカソは、ますます絵を描くことが好きになり、一日中絵ばかり描いていました。ピカソが十四才になった時、両親はピカソを、美術(shù)學校の大人だけの組に入れることにしました。
(畢加索越來越喜歡畫畫了,他一整天只是在畫畫。畢加索14歲的時候,父母送他去美術(shù)學校的成人班了。)
美術(shù)學校に入學したピカソは、美術(shù)の基本をしっかり勉強し、入學して二年後に書いた絵「科學と慈愛」は、美術(shù)展で金賞を勝ち取りました。ピカソの努力と才能は認められ、宮廷畫家になることを勧められるほどでした。宮廷畫家になれば、一生生活の心配はありません。
(入學于美術(shù)學校的畢加索充分學習了美術(shù)的基礎(chǔ),入學兩年后,他所畫的畫“科學與慈愛”在美術(shù)展上獲得了金獎。畢加索的努力與才能得到了認可,甚至還被推薦去當宮廷畫家。成為宮廷畫家的話,這輩子都不必擔心生活問題。)
しかし、ピカソは、こう言ったのです。
(然而,畢加索如此說道。)
「人に描かされる絵はもう嫌だ!自分の描きたい絵を描くために、蕓術(shù)の都パリに行く。」
(“我已經(jīng)不想再按別人的要求畫了!我想畫自己想畫的內(nèi)容,因此我要去藝術(shù)之都巴黎。”)
パリに著くと、ピカソは、猛烈な勢いで絵を描き始めました。描かないではいられない気持ちでした。一日に三點以上も描く仕事ぶりは、友人の畫家達を驚かせました。
(來到巴黎后,畢加索開始氣勢猛烈地畫畫。他覺得不畫不行。一天要畫三件以上的工作狀態(tài)使他的畫家友人們很驚訝。)
「まだ、二十才にもなっていないのに、ピカソは何て凄いやつなんだろう?!?/p>
(“他明明還沒滿20歲,畢加索真是厲害啊。”)
この頃から、少しずつピカソの絵を理解してくれる人が現(xiàn)れ始めました。しかし、絵は売れず、生活は次第に貧しくなってきました。寒い夜は、折角描いた絵を燃やして溫まる有様でした。
(從這時起,漸漸開始出現(xiàn)了能夠理解畢加索畫的人。然而,畫賣不出去,生活逐漸貧困起來了。寒冷的夜晚,他將好不容易畫的畫燒了取暖。)
苦しい日々を過ごしていたピカソは、この頃、「蕓術(shù)は悲しみと苦しみから生まれるものだ。」と考えるようになり、自分の気持ちを絵で表現(xiàn)するようになりました。
(過著苦日子的畢加索在這時考慮道:“藝術(shù)是從悲傷與痛苦中而生的?!彼_始將自己的感情用畫表現(xiàn)了出來。)
それから、ピカソの絵は目まぐるしく変化していきます。
(這之后,畢加索的畫產(chǎn)生了翻天覆地的變化。)
この間、ピカソの絵を見て、「あなたの絵を五十年間買いましょう?!工妊预Ξ嬌踏猡い蓼筏郡?、そんなことは気にせず、ピカソはひたすら感動したことを絵に表したのです。様々に変化するピカソの絵を見ている人の中には、「ピカソには、ついていけない?!工取⒎请yの聲をあげた人もいました。しかし、ピカソはきっぱり言ったのです。
(這期間,也有畫商看到畢加索的畫后,說“我買你五十年間的畫吧。”不過畢加索對此毫不在意,只是一個勁地將感動的事用畫表現(xiàn)出來。在看了畢加索變化各異的畫的人中,也有些人指責他:“無法理解畢加索。”然而畢加索斬釘截鐵道。)
「僕にとって、感動したこと、それが作品なんだ?!?/p>
(“對于我而言,感動的事是作品。”)
こうしてピカソは、自分の絵の世界を造りあげていったのです。
(就這樣,畢加索逐漸創(chuàng)造出了自己的畫的世界。)
しかし、満ち足りた生活は続きませんでした。戦爭が起こったのです。一九三七年四月、スペインの田舎町、ゲルニカをドイツ軍が爆撃し、多くの人が亡くなりました。ピカソは怒りを込めて、すぐに大作「ゲルニカ」を描きました。ピカソは、黙々と戦爭の恐ろしさを訴える絵を描き続けました。
(然而滿足的生活沒有持續(xù)下去。戰(zhàn)爭爆發(fā)了。1937年4月,西班牙的鄉(xiāng)下城鎮(zhèn)格爾尼卡遭到了德軍轟炸,很多人死亡了。畢加索滿腔怒火,馬上畫出了大作《格爾尼卡》。畢加索默默地持續(xù)畫著訴說戰(zhàn)爭的恐怖的畫作。)
一九四五年、戦爭が終わり、ようやく平和が訪れた時、ピカソの絵に、平和の証のハトが現(xiàn)れるようになりました?!弗薄ぅ芝ē?!ケ·ブエノ?。ㄋ財长?、素敵だ。)」
(1945年,戰(zhàn)爭結(jié)束了,和平終于來臨的時候,畢加索的畫中,出現(xiàn)了象征著和平的鴿子。“太棒了!太棒了!”)
ピカソは浮かれて歌い踴ると、また、猛烈に絵を描き始めました。まるで、幼い子供のように無心で描きました。
(畢加索高興地載歌載舞,然后再次猛烈地畫起了畫。就仿佛是年幼的孩子般專注地畫著。)
感動したことを作品にし続けたパブロ·ピカソは、一九七三年、九十一才で亡くなるまでに、およそ數(shù)萬點もの絵、版畫、彫刻などを殘したのです。
(畢加索不斷地將感動的事變成作品,直到1973年,他91歲去世的時候,留下了約數(shù)萬件的畫作、版畫和雕刻等。)


