徒然草 第108段 寸陰惜しむ人なし。?吉田兼好 日文念書

寸陰惜しむ人なし 。これ、よく知れるか、愚かなるか:わずかな時(shí)間を惜しむ人はいない。惜しむにあたいしないとしててなのか、それとも愚かなためなのか?
一銭軽しと言へども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす:わずか一銭の金は軽いが、これを集めれば貧しい人を富者にする。光陰もまた同じ。
剎那覚えずといへども、これを運(yùn)びて止まざれば、命を終ふる期、忽ちに至る:一瞬の時(shí)間といえども、これを停めることなく過ごしてしまえば、たちまち死がやってくる。
されば、道人は、遠(yuǎn)く日月を惜しむべからず:だからこそ、仏道の修業(yè)者は、遠(yuǎn)い時(shí)間を考えてはいけない。今の一瞬一瞬を空しく過ごさないようにしなくてはならない、の意。
飲食?便利?睡眠?言語(yǔ)?行歩、止む事を得ずして:飲食<おんじき>のみくい、便利<べんり>大便や小便、言語(yǔ)<ごんご>おしゃべり、行歩<ぎょうぶ>歩くこと、こういうものはどうしようもないのだから、時(shí)間をとってしまう。
謝霊運(yùn)は、法華の筆受なりしかども、心、常に風(fēng)雲(yún)の思を観ぜしかば、恵遠(yuǎn)、白蓮の交りを許さざりき:<しゃれいうんは、こっけのひつじゅなりしかども、、、、えおん?びゃくれんのまじわりをゆるさざりき>と読む?!钢x霊運(yùn)<しゃれいうん>」(385~433)は、中國(guó)、南朝の宋の詩(shī)人。陽(yáng)夏(河南?。─稳?。永嘉太守?侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻な表現(xiàn)によって山水詩(shī)にうたった(『大字林』)。彼は、法華経の漢訳者だが、風(fēng)や雲(yún)に馴染みながら生きたいと?!┧激盲皮い郡韦?、恵遠(yuǎn)や彼の結(jié)社白蓮との交わりをしなかったというのだ。恵遠(yuǎn)は慧遠(yuǎn)(334~416)中國(guó)、東晉の僧。中國(guó)浄土教の祖とされる。廬山(ろざん)に入り修行?教化を行い、同志と白蓮社(びやくれんしや)を設(shè)立。出家は王権に屈服する必要はないとする「沙門不敬王者論」を著した。廬山慧遠(yuǎn)(『大字林』)。
內(nèi)に思慮なく、外に世事なくして:心の中に雑念が無くて、他に俗事を持たない人。
止まん人は止み、修せん人は修せよとなり:修業(yè)したくないものはそれでよし、修業(yè)しようと思う人はしっかりと修業(yè)せよ。