相州戦神館學(xué)園 萬仙陣 序章日語文本
一邊推游戲一邊用misaka扒下來的
盧生(ろせい)というもの。その定義及び資格についての所見。
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邯鄲(かんだん)の夢(mèng)という術(shù)については前項(xiàng)でも述べた通り、唐代の故事を基にした一種の歴史シミュレーションであり、そこから悟りを得るための行である。
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もっと有り體に言えば超人を生み出すシステム。およそあらゆる行がそうであるように、そこへ挑戦する者を人として更なる高みへと導(dǎo)くための修練だ。
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そうした意味では、體力を得るために走ることや知識(shí)を得るために書物を読み耽ることと本質(zhì)的に変わらない。違うのは、その難易度。そして達(dá)成した際に得られる効果の程だろう。
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邯鄲を制覇するには、夥しい死線を潛り抜けねばならないという非常に明快な危険がある。この時(shí)點(diǎn)でそもそも挑戦しようと思う者が限られるし、覚悟をもって臨めば成功するという甘い話も存在しない。
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少なくとも、我々が日頃言葉にし、認(rèn)識(shí)しているレベルのものとはまったく層を異にする覚悟が必要なのだ。
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なぜなら邯鄲は夢(mèng)の行。色も形も重さもなく、文字通り絵空事でしかない代物を現(xiàn)実に紡ぎ出してみせるという意志の力がもっとも重要になるのだから。
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諦めなければ夢(mèng)はきっと葉う。今どき子供騙しにもならないそんな言葉を、何より信じ抜かねばならないのだ。そう、狂的と言えるほどに。
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それが出來る者以外に、邯鄲の夢(mèng)は踏破出來ない。
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総計(jì)で萬年を越えることすら當(dāng)たり前とされる時(shí)間の密度、繰り返す歴史、様々な未來……そのすべてを呑み込んで立つことの出來る勇者(バカ)。言うまでもなく常人には不可能である。
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人類という種の意志に觸れ、理解する器。阿頼耶識(shí)と呼ばれる境地に達(dá)せる傑物。それこそが盧生。
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潛在的にその資質(zhì)を持っていれば誰もが成せるというものでもない。盧生は、夢(mèng)を越えることで初めて盧生になれるのだ。まさしく故事をなぞるがごとく、悟りを極めてこそ完成する。
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その果てに、人が歴史の中で描いてきた夢(mèng)の數(shù)々……神や悪魔という物語を現(xiàn)実世界に顕象させる。盧生は普遍の無意識(shí)(アラヤ)からそれらを呼び出す召喚士であり、彼らの夢(mèng)は人類種の意志として破壊も救いも描き出すのだ。
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一言、危険と斷じていいだろう。我々、一般の者にとって、盧生は雲(yún)の上にある存在なのだ。
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なぜなら神や悪魔という夢(mèng)物語(キャラクター)は人が世の不條理に納得を得るため生み出した道具だから、概念として人が太刀打ち出來ないモノに設(shè)定している。
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よってそれを自在に操る盧生こそはヒエラルキーのトップに在る者。悪しき盧生が暴虐の夢(mèng)を紡ぎ出せば、我々にそれを止める術(shù)はない。
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ゆえに、盧生とは何なのかという研究がこの百年続けられてきたし、私もその意志を継いでいる。
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現(xiàn)狀、存在を確認(rèn)された盧生は三名。
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第一盧生(ザ·ファースト)、甘粕正彥。彼こそすべての始まりであり、未だもって最強(qiáng)の盧生といえばこの人物であることに論を俟たない。
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紡ぎ出す夢(mèng)の概念は審判。自らを魔王と謳ったこの彼は、未來に待ち受ける人類の墮落を憂うあまり、普遍の悪役となることを望んだ。
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高度文明化による法整備や諸権利の確立により、人の魂から勇気や覚悟の輝きが消え失せると思ったのだ。
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天敵のいない生物は機(jī)能(ひかり)を失う。鳥は飛ぶことを忘れ、馬は走ることをしなくなり、日がな眠りこけているばかり……やがては手足を動(dòng)かしただけで偉業(yè)を成したと言うような、低階層の存在へと劣化していく。
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よって試練を與えるという彼の論理は確かに一定の理解を示せるものだ。
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なぜなら甘粕正彥の根底にあったものは、人類に対する掛け値なしの期待であり愛であるから。毆りつけて性根を叩き直すというのは好みじゃないが、それでも効果を得られることは確かだろう。前述の通り、あらゆる生物は天敵がいるからこそより強(qiáng)くなっていくのだ。
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その種を象徴する機(jī)能、輝き。鳥にとっての翼や、馬にとっての健腳がそうであるように、人の輝きが勇気にあるというのは同感だ。ゆえにそれを守りたいと叫んだ甘粕という盧生を、私は芯から嫌うことが出來ない。
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手法がどこまでも苛烈であり、傍迷惑極まりないが、願(yuàn)った夢(mèng)には真(マコト)がある。そこを否定することは出來ないだろう。
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そして、だからこそ私は思う。第二盧生(ザ·セカンド)、柊四四八――彼こそ真の勇者なのだと。
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紡ぎ出す夢(mèng)の概念は仁義八行。彼は甘粕(ファースト)への対抗策として生まれた盧生だが、その夢(mèng)は決して後追いの二番煎じなどではない。
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人の勇気と強(qiáng)さを信じ、守ろうと願(yuàn)ったのは甘粕正彥と同じだが、そのための手法が異なっている。彼は意志を継いで行くことに誇り持ち、後代へ示す光の道となることを望んだ。つまるところ、子孫が無様な真似を出來ないよう、一種の規(guī)範(fàn)になろうとしたのだ。
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そしてそれは、実際に効果をあげたと確信している。
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甘粕事件を制したことで世界を救ったという裏の歴史に留まらず、第二次大戦を食い止めることで表の偉業(yè)も成し遂げたのだから。
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この現(xiàn)在も、柊四四八は世界史に名を刻んだ英雄として人々に記憶されている。その生き様、仁義八行――彼がいなければ我々は生まれてさえいなかったのだから親も同じだ。バトンを受け取った身として先人の誇りを穢してはならないと、私を含め多くの者が今も敬意と感謝を捧げている。
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そして、そんな彼に負(fù)けぬよう、我々なりの歴史というものを紡ぎ、下の世代に繋げていきたいと考えている。
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無論、全世界の人間がそう思っているわけではないことくらい承知の上だ。同じ日本人であっても柊四四八を知らない者は存在するし、淺ましい行いに走る輩も少なくない。
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しかし、それをもって彼の力が及ばなかったと言うのは違う。
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第二の盧生は、我々が人の光を消してしまうほど愚かではないと信じてくれた。そのために標(biāo)(しるべ)となる背中も見せてくれた。ならばそれで充分だろう。彼は未來永劫に渡り世界を己の夢(mèng)で洗脳しようなどと考えていたわけじゃない。
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あくまで、彼が重視したのは継ぐということ。そうされるに相応しい己たらんと走ること。
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現(xiàn)代に生じる問題は、今を生きる我々がどうにかしなければならないことだ。その矜持こそ、彼が示してくれた仁の心なのだろうから。
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今の世が、彼ら盧生の見た未來に比べてどうなのかは分からない。甘粕正彥が悲嘆した劣化とやらを、どの程度食い止められているのかは不明だし、柊四四八が求めた朝にどこまで近づけたのかも不明のままだ。
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そこは盧生でなければ分からないことであり、よって確かめる術(shù)がない。
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だが、そうであるからこそ私は信じる。我々は前に進(jìn)んでいるのだと。
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柊四四八を無責(zé)任な敗者にしては斷じてならない。この思いがある限り、劣化したなどと言わせて堪るか。
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そう、絶対に。絶対に。
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それこそ私の使命であると胸に誓っているからこそ……
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「ああ、いかん……
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悪い癖だな。どうもこの問題になるとムキになる。こんなものを提出したら、また親父殿にからかわれるだけじゃないか」
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自嘲するように呟いて、少女は書きかけの書類から顔をあげた。目的の地へと向かう寢臺(tái)列車の個(gè)室內(nèi)で、軽く伸びをしてからページを破ろうとし、だが寸前で思い留まる。
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「いや、まあ、けどこれは私の本音だし。
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親父殿に見せられないからといって、ゴミ箱行きというのは違うよな。
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うむ、だから取っておこう。出來れば額に嵌めて新居に飾りたいくらいなのだけど」
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そういうわけにもいかないよなと殘念げに溜息を一つ。再び少女は紙にペンを走らせ始めた。提出先から突っ込みを入れられそうな箇所はあとで綺麗に切り取るとして、前後の文脈を調(diào)整しながら続きに移る。
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以上のことから、盧生たる者に必要な資質(zhì)がなんであるかは推察できる。
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まず先天的な要素として、その誕生に正と負(fù)の両面……すなわち二親から真っ當(dāng)な慈愛と強(qiáng)い悪性を等しく注ぎ込まれていなければならず、存在として人間世界の縮図とも言える業(yè)(カルマ)を背負(fù)っていなくてはならない。
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そうした上で、決め手となる後天的要素。自己の矛盾したルーツを理解しつつ、人類とその歴史に深い興味と愛の心を抱くこと。また、自らが描きたい人間賛歌(みらい)のかたちを明確に持っていること。それだろう。
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このことについては、辰宮百合香と我堂鈴子の共著である『新世界に問う社會(huì)個(gè)人主義』で同様の見解が成されているし、伊藤野枝が記した『自由戀愛の美』にもさりげなく差し込まれている。
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盧生、及び邯鄲法の秘密は闇に封じるべきものであるから、おおっぴらにはしていないが、それでも見る者が見れば分かるようにメッセージを殘しているのだ。
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私利私欲に走る者では盧生になれない。ゆえ、そうした者はさっさと諦めたほうがいいと。
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単純な我意の強(qiáng)さだけで得られるような、安い資格では斷じてないのだ。そう、かつて逆十字と呼ばれた男がどうしても盧生になれなかったように。
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盧生(かれら)は人の代表者たる存在だ。よって自己中心な唯我獨(dú)尊では至れない。
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しかし、だからといって、光を愛するばかりが人間ではないだろう。人の暗部、闇の歴史を愛する盧生も存在する。
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それこそが、第三盧生(ザ·サード)。稀代の殺人鬼だったと言われている者。
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人類史を死の歴史であるとそれは捉え、人の阿鼻叫喚を何より愛した。痛みと苦しみこそが人間の本質(zhì)だという感性で、確かにそのことも一面の真実ではあるのだろう。
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端的に死神。第三の盧生が紡ぐ夢(mèng)の概念はそうしたもので、それは大戦に雪崩れ込もうという昭和初期の世界が顕象させた、狂気の落とし子だったのかもしれない。
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自滅に走る人類史の代表者……先々代はそのような言葉を、持ち前の軽佻浮薄(けいちょうふはく)さで皮肉たっぷりに殘しているが、改めて第三盧生(サード)を食い止めてくれた第二盧生(セカンド)には感謝の念を禁じ得ない。ディストピアの夢(mèng)など御免こうむる。
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邯鄲法は甘粕事件に続くこの亂をもって永久に失伝したわけなのだが、それでも警戒を緩めてはならない。盧生の資格者は、今このときも生まれ続けているのだから。
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と、神祇省の重鎮(zhèn)方は考えているようだけど、私の見解は少し違う。
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おそらくもう、今の世に盧生は生まれないのではないだろうか。ただの楽観という意味ではなく、ある程度の理屈を立てたうえでそう思える。
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結(jié)局のところ、三人の盧生が生じた十九世紀(jì)末から二十世紀(jì)初頭という時(shí)代は特殊すぎたのだ。
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先進(jìn)國が野蠻と同義の率直さを殘した上で、世界という単位を本當(dāng)の意味で機(jī)能させ始めた史上初の時(shí)代。文明の進(jìn)化は例を見ないものであり、それに伴う人々の意識(shí)改革も凄まじい速度で成されていった。
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先に挙げた先天性と後天性、どちらも発生し易い條件がそろいすぎていると言えるだろう。
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我も人。彼も人。あらゆる未知と遭遇して衝突や排斥を繰り返しながらも理解を深めていった百年前の世の中は、否が応にも人間の業(yè)(カルマ)を浮き彫りにせざるを得ない。そういうことだ。
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現(xiàn)代(いま)は確かに、世界という単位がとても身近になっている。少なくとも、その尺度でものを語ることに誰もさほどの抵抗を覚えないし、教育水準(zhǔn)も上がっている。
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そうした意味では、盧生に近い者が増えているとも言えるだろう。百年前に比べ、平均値が上がったことは間違いない。
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だが逆に、それで広く淺くなったのだと私は思う。世界の裏側(cè)に住む異國人と結(jié)婚することは多少珍しくあっても奇異ではなく、許されない禁忌というわけでもないのだから、アラヤに屆くほどの人間賛歌を追い求めるのは難しくなった。
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それも甘粕正彥に言わせれば人の劣化なのだろうか? いいや、きっと違うだろう。彼は彼で、最期に納得して逝ったのだから。
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分かりやすく目に見えなければ無いも同じで価値も無い。そのようなことは斷じてないと言う柊四四八が示した勇気に、夢(mèng)を託して。
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だから私もそれに倣い、この任務(wù)が大過なく終わることを祈っている。何も起こらなかったことに不満を持つような人間にはなりたくないから。
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かつて、柊四四八とその眷屬たちが夢(mèng)の世界で過ごしたという二十一世紀(jì)。それが現(xiàn)実の今年にあたるのならば、そこに歴史の朔(さく)が生じる事実と、その危険性を重々承知したうえで。
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私は思う。
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これから向かう鎌倉で、英雄たちの子孫に會(huì)うのを何より楽しみにしていると。
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戦(イクサ)の真(マコト)は千(アマタ)の信(イノリ)に昇華したのだと信じているから。
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石神靜乃(いしがみしずの)も仁義八行の一として、彼らの仲間と言われたいのだ。
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